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2013年9月21日 (土)

明治・大正期の洋画家、萬鉄五郎(岩手県)

 2013年中秋の名月は見事だった。まん丸で欠けてないから物思いにふける隙がない。とはいえ、じきに半月になり秋の気配がましそう。でも、夏はすぐには去らない。この季節のせめぎ合い、優美に表現すれば芸術かもしれない。しかし絵心、歌心なし筆者には無理、せめて画集で芸術を味わうことにしよう。

 現代日本美術全集『萬鉄五郎/熊谷守一』1980(集英社)、〔雲のある自画像1912〕に見入っていたら画中の萬鉄五郎と目があった。たじろぎ、急ぎ次ページへ、〔日傘の裸婦1913〕と〔裸体美人1912〕が並んでいる。次々見ていく、〔ボアの女〕〔薬罐と茶道具のある風景〕〔かなきり声の風景〕〔地震の印象〕〔猫〕〔犬〕〔牛〕〔あじさい〕〔薔薇〕等など傾向の異なる絵がたくさん。なかに数枚の萬鉄五郎自画像があり、時代によって画風も色彩も異なるが、どれも目に力がある。何を見通し、何を思い自身を描いたのだろう。
Photo
    萬 鉄五郎  
 1885明治18年11月17日、岩手県和賀郡東和町土沢の大きな回送問屋に生まれる。

 土沢は花巻から遠野をへて釜石に至る街道筋にあり、そこの農海産物の回送問屋で資産家の家に生まれた。早くに母を亡くし祖父と伯母に育てられた。祖父の死後、早稲田中学に入り白馬会第二洋画研究所(菊坂研究所)に通い、長原孝太郎の指導を受けた。
 当時の自画像(1904)からも強い視線を感じるが、まだ独自性は発揮されていない。
 1903明治36年、早稲田中学に編入。このころ、豊島区高田に住み、伯母の勧めで日暮里にあった禅の道場に通う。
 1906明治39年、上野谷中・両忘庵の禅堂に通い参禅していた萬は、宗活禅師が渡米するのについていった。宗活禅師はその師、釈宗演が鈴木大拙を伴いアメリカに臨済禅の布教にあたった志を継ごうとしたのである。しかし、約半年のアメリカ生活は窮乏をきわめ、志もならず帰国。

 1909明治42年、東京美術学校西洋画科に在籍中に結婚、小石川区(文京区千石)に新居を構える。
 1912明治45年の卒業制作〔裸体美人〕は、フォービズム(野獣派)を意識した強烈な色彩的作品である。当時、多くのグループ展が開催されたが、そのうち、フュウザン会グループの展覧会と出品作が、新しい傾向をしめし、あふれるエネルギーを伝えた。萬はその中心メンバーであった。 
 「わが国最初のフォービニスト。形式に少しも災いされず、観念的なものがなく、鋭い感受性と強い意志の力を宿した画面は溌剌としたものがあった」(*岡畏三郎 『近代日本美術資料』国立博物館編1948)。
  * 岡畏三郎:美術史家。父岡鬼太郎は劇評家、福澤諭吉の時事新報・二六新報記者。兄は岡鹿之助。

 1912大正1年10月、高村光太郎岸田劉生らと *フューザン会を起こす。同年、日本では数少ないキュビズム(立体派)理論により構成された〔もたれて立つ人〕を二科展に出品。
 * フューザン会: 文展系の洋画にあきたらない在野の青年洋画家らの団体。

 1913大正2年春、28歳の萬は短期現役志願兵として北海道旭川・第7師団に入隊し勤務。その年の夏に帰京、翌年秋に東京生活をたたんで郷里に引きこもることにした。すでに妻子があり、生活費を得るため浅草で映画の看板を描いたり、政治漫画の投稿などをしていた。
 土沢に帰郷した萬は、再上京まで孤独な時間と空間に自分を置き、脇目もふらず制作に没頭、勉強した。
 1914大正3年、一時、郷里に戻る。
 1916大正5年正月、郷里で描いたたくさんの作品をひっさげて上京、展覧会を開いた。しかし展覧会は目立たなかったらしく画壇の反響はほとんどなかった。

 1919大正8年、二科展に〔木の間より見下ろした町〕を出品。
 このころ神経衰弱となり、療養をかねて茅ヶ崎に転居。当時の心境は「悶え苦しみながら、ごろごろ転げ落ちつつある様な感じ」だった。こうした苦境、探求、苦悩からの脱出を萬は日本の伝統美術に求めていった(『現代日本美術全集』「萬鉄五郎の生涯と芸術」陰里鉄郎)。
 「東洋画を正当に生かすには筆墨の精錬に重点を置いて」、装飾性の強い琳派でなく南画、文人画に興味をもち独自の近代日本洋画を探索した。
「(谷文晁は)あく迄人間生活に生き積極的、精力的、征服力に進まんとする・・・・・・写形、構図に至るまで画宗たるにふさわしきものを獲得した」(萬鉄五郎著『文晁』アルス美術叢書1926)。
 このような努力の結実として〔臥(ね)ている人1923〕〔宙腰の人1924〕〔ほほ杖の人1926〕など日本近代油彩史に独特の画境をつくった。

 1927昭和2年5月1日、死去。
   萬が好んだ赤と緑の対比が生きた〔水着姿〕が新装なった東京府美術館の壁面を飾った折しも43歳の生涯を閉じた。
 ちなみに岩手県立美術館に萬鉄五郎、松本竣介、舟越保武の展示室があり、萬〔赤い目の自画像1912〕などがある。
 なお、自画像の萬と写真の萬は別人のようだ。年齢というより、内面が表れているか否かなのだろう。

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