科学・数学女子、女性初の帝大生・黒田チカ
科学、数学女子 <その一>
リクルートスーツ姿の女子学生をみかけると「頑張って」と声をかけたくなる。学校から社会へ出たとたん男子優先社会、気持ちが躓かないようにと願う。自分は政治経済とか表立った世界に興味はないが、能力ある女子が進出、活躍できないと世の中ダメなんじゃないかと思う。むろん活躍している女性はいるが、多いとはいえない。
所で百年前はもっとたいへん。教育の機会を得るのさえ、境遇やチャンスに恵まれないと難しかった。なにしろ女性は容姿や気立て、若さなど努力しようがないところで判断されていた。
―――与謝野鉄幹を訪ねた時に、取次に出た婦人があつた。束髪の箍が弛んで、前髪やら鬢やら蓬蓬と乱れて、扮装も素振も構はず、物柔らかに会釈された。暫く話して居る間に、此の方が晶子夫人なる事が分つた。
ちょつと藪睨みのやうな眼、捩れた一枚の前歯が、触目(しょくもく)第一に気がつく。その眼か歯か、何かは知らぬが、和と笑ふ時に一種のチャームを有つて居るやうに感じた・・・・・・(中略)・・・・・・
鉄幹の書斎を辞し去る時に、次の間で二人の児に二つの乳房を含ませて居る晶子さんを見た。芸術の為に努力する彼女は、一面母親としても、能く児をはごぐむ優しい女性であった(*吉野鉄拳禅『時勢と人物』大正4年)。
このように与謝野晶子でさえ、優れた歌人としてより妻、母としての有りよが褒められる時代にあって科学・数学の研究を志す女性がいた。
中学(旧制高校)卒業男子のための帝国大学中、東北帝国大学は女性に入学の門戸を開放したのである。それまで女子を帝国大学に入学させた例はなく、関係者にとっては驚天動地の出来事、社会の注目をあびた。
東北帝国大学(現・東北大学)は1907明治40年、仙台に設立され、理科・農科大学の2分科大学をもって発足、総長は*沢柳政太郎。
沢柳は文部次官時代から欧米の大学では女性への大学開放が進んでいるのを知っていたし、次のように考えた。
―――仙台に於ては高等学校の教員免許状所持者を持った者は語学だけを試験して理科大学に要れるといふ規則を設け、傍系入学を認めた以上、「女性の入学を拒否する理由はない」。まずは、1903大正2年度の学生募集広告を『官報』に掲載した。
帝国大学を受験することになった3人の一人、黒田チカは「女子にも高等教育を」という旧佐賀藩士の父親の方針で、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)を卒業。「近代薬学の祖」といわれる長井長義に見込まれ帝国大学を志願することになった。そのいきさつを次のように回想する。
―――女子に対しても学問の門戸開放の沙汰が伝えられた。とくに東京女高師では数学研究科の牧田らく氏を同大学に進学せしむる意向であった。*長井先生は科学科からも志願するようにと私に熱心なご勧誘があり、*中川校長にも進言・・・・・・せっかく女子に門戸を開放されたのに志願者がいないのは、店を開いたのに買い手がないようで非常に遺憾であるからと、日本女子大においても長井先生のご指導により中等教員の資格を得られた丹下うめ氏が志願者となられたのであった。
但し女子の大学志願は最初の企てであり心配の点が多かったが、勇気をふり起こして受験した(『東北大学百年史』女性の帝大入学)。
*沢柳政太郎: 教育者。教授任免権をめぐる沢柳事件で京大総長を辞職。自由教育運動の先覚者。
*長井先生: 長井長義。第1回留学生としてドイツ留学、帰朝後東京帝大教授、女性の教育に熱心で東京帝大の学生から講義されることもあった。当時は東京帝大から講師として東京高等女子師範学校へ招聘されていた。
*中川校長: 中川謙二郎。東京女子師範高等学校長、仙台高等工業学校の初代校長。女子教育の振興に尽力した。
1913大正2年8月16日「東京朝日新聞」は、女性3名が男性35名とともに入学を許可され、成績良好の旨を報じた。
この時代海外留学に出た研究者たちは、ドイツ、ロシアなどで女性の研究者に接し机を並べて研究していたから性別を超えた研究者養成ができた。
『東北帝国大学理科大学一覧』(大正2、3年)生徒名簿によると、
数学科:牧田らく、京都平(東京女子高等師範学校・数学研究科修了、同校授業嘱託24歳)。
科学科:黒田チカ、佐賀士。1884明治17年~1968昭和43年(東京女子師範学校助教授。29歳)。
科学科:丹下むめ、鹿児島平(中等教員検定試験合格、日本女子大学校助手40歳)。
はじめ地名の後にある「平」「士」の意味が判らず、後から平民・士族の略と気付いた。明治維新から50年余りを経た大正期でも出身区別があったとは、一体いつまで記載していたのだろう。
黒田チカ・丹下ウメ(むめ)は、後に教授として母校に迎えられ研究者としての道を歩んだ。牧田らくは結婚後に東京女子高師をやめたが数学の研究を続けた。3名とも研究者として名をなし、その後、多くの女性研究者を育てたのである(『東北大学百年史』)。
ちなみに、黒田チカの卒業研究は、高級染料の紫紺(ムラサキグサの色素)の化学構造を特定し、人工合成に道を開いた。英国留学をへて、理化学研究所(初代所長・菊池大麓)で、本格的に研究するなど84年の生涯を研究にささげ、生涯独身を貫き、養子を迎えた。
亡くなったあと遺品を保管していた遺族は、入学100周年の節目に遺品を東北大学に寄贈。遺品や論文など未公表資料を同大学史料館が整理・保管し記念展で紹介する予定という(「毎日新聞」2013.7.5記事・元村有希子)。
数学女子 <その二>
前出の女子帝国大生らと、どこかで行き交ったかもしれない女流数学家について、『現代女の解剖』(*吉野鉄拳禅・東華堂1915)より抜粋。
―――亀田米子は本年37歳にして、清浄無垢の処女也。上野石子も29歳にして然り。数学の研究と育英の事業に全心全力を注いで倦まず、今時稀に見るの女女丈夫たらずんば非ず。
上野石子は身長のすらりとしたる、華奢な体格の婦人也。顔に凄みはあれど、目元口元に愛嬌あり。快活に、談話する所、確かに東京っ児なり。 米子は仙台の産也。真率なる所、無邪気なる所、快活なる所、どうみても女流数学家なり。
石子の父、上野清は麹町区土手三番町に数学院を設立、多くの青襟子弟の教養に勉め、彼女もまた同院に入りて米子と共に、算術、代数、幾何、三角法等を専修せし也。
亀田米子は仙台に帰って私塾「数学教授所」を開いた。はじめ軍人と男子学生のみ、やがて女子も来るようになった。のち宮城県立高等女学校教諭、ついで東北中学校で教鞭をとった。
上野石子は数学の教員免許をとり東京中学校講師になった。
―――二人とも女子にして中学生を教授するは、本邦稀に見る所たり。而して、その成績却て良好なりと云ふに至つては、女流数学家も満更莫迦にした者に非ざる也。
*吉野鉄拳禅:吉野臥城。宮城県伊具郡角田町(角田市)出身、詩人・俳人・評論家・小説家。
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2023.9.30<女子大生110周年式典に佳子さま>
―――秋篠宮家の次女佳子さまは30日、仙台市を訪れ、東北大の川内萩ホールで開かれた女子大生誕生110周年の記念式典に出席された。佳子さまは、東北大が女性を受け入れる方針を実行したことは「大切な一歩だったと」・・・・・ 1913年に日本で初めて女子大生が誕生した・・・・・(2023.10.1毎日新聞)。
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コメント
上野石子で検索して、こちらのページにたどり着きました。
黒田さんは記事に名前が無かったですが、牧田さんと丹下さんは、東北帝大に入る前に、上野石子さんに数学を教えてもらったようです。(1915/8/31読売新聞記事より)
ブログ拝見し、勉強になりました!
投稿: 素牛 | 2015年8月26日 (水) 17時37分