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2013年10月26日 (土)

〔鮭〕〔三島通庸三県道路改修抄図〕、洋画家・高橋由一

 明治の洋画家・高橋由一(ゆいち)の静物画〔〕はよく知られ、画集や図録で見た人も多いだろう。上野の展覧会で〔鮭〕を目にして「なるほど」と感心したが、何がなるほどか表現できず情けない。ただ、身近な魚が芸術家の手にかかり、活きて迫ってきた感が忘れられない。
 高橋由一の名をはじめて知ったのは〔宮城県庁門前図〕である。明治のモダンな建物が描かれているのに物静かな雰囲気が不思議で記憶の残った。
 次に由一に出会ったのは【激動の明治国家建設特別展】である。衆議院議員憲政記念館に〔耶麻郡入田付村新道〕が展示されていた。福島県の耶麻郡を描いた絵が山形県立図書館蔵とあるのは、会津三方道路土木事業の記録だからだと思う。

 かの土木県令・三島通庸は福島に着任すると会津三方道路開削工事を計画、その記録を洋画家・高橋由一に委嘱した。
 三方道路は、会津若松から山形、新潟、栃木三県に通じる道路で東北を東京に結ぶ。完成すれば東北の米作地帯を東京に直結、また内陸を横断して兵力の日本海沿岸への急速な展開を可能にする。
 ただし、道路建設にともない巨額の負担を会津地方人民に強いたから県民はこれを拒否、県会議長・河野広中ら自由党員が反対運動を展開した。
 1882明治15年、農民と警察の衝突を機に河野をはじめ多くが逮捕・処罰された。福島事件である。

 それから3年、128枚の〔三島通庸三県道路改修抄図〕が完成、その一枚が〔耶麻郡入田付村新道〕である。高橋由一はこのような記録のための風景画、〔鮭〕にみられる美術・芸術世界、双方に足跡を残した。どのような生涯か、見てみよう。

    高橋由一
 
1828文政11年2月~894明治27年7月。江戸の佐野藩邸生まれ。幼名・猪之助、号・藍川。
 

 弓術、剣道指南の家に生まれたが、病弱のため画業を志し、江戸に出て狩野派を学ぶ。あるとき友人から洋製石版画を見せられ
「悉ク皆真ニ迫リタルガ上ニ一ノ趣味ヲ発見」して洋画学習を思い立ったが、師はみつからず、方法も分からないでいた。
 1862文久2年、ツテを頼り幕府蕃書調所付属の画学局に入学できた。しかし「天ニモ地ニモ油絵ナド観ルコトナク」、海外人から学ぶしかないと、友人岸田銀次(吟香・当ブログ2013.3.23)を頼った。岸田が横浜でヘボンの『和英語林集成』を手伝っていたからである。
 1866慶應2年、由一は岸田やヘボンの紹介であちこち聞き回り、どうにか*ワーグマンに面会できた。次いで岸田の助言もあり通訳をつれて再訪、ワーグマンの指導を受けられることになった。未だ馬車や汽船がなかったから、由一は東京から横浜まで歩いて通った。この年、パリ万国博覧会に出品。
 *ワーグマン:イギリスの画家。横浜に住み「ジャパン・パンチ」創刊。日本女性と結婚。

 1867慶應3年、旧藩主堀田正衡の命を得て上海にゆき3ヶ月間滞在、洋画家たちと交流。
 1870明治3年、民部省出仕。翌4年大学南校に画科が設けられ教授になったが翌5年、辞任。
 1873明治6年、日本橋区浜町に天絵楼を開設、洋画を教えた。
 このころ南画・洋画が流行、川端玉章(日本画家)なども一時入塾して洋画を学んだ。
 ちなみに、明治14、5年ころ日本画が勃興し、洋画が衰えたが、浅井忠、小山正太郎らの奮闘により日本画と並進。
 1875明治8年、天絵楼を天絵社と改め、自作および門下生の作品の一般公開を始める。
 このころ由一は対象に迫ってその存在感にふれる表現を身につけ〔〕〔豆腐〕〔なまり節〕などを制作。また、洋画の先覚者として普及につとめた。
 1879明治12年、金刀比羅宮に自作を奉納、補助資金を受けて天絵社を東京府認可の天絵学舎とする
(1884明治17年廃校)。
 次は、『ふる里』(*正宗得三郎著1943人文書院)から抜粋、

―――四国に渡った時に、図らずも琴平図書館に高橋由一の作品が集まっているのを発見した。そしてその作品が明治時代に日本人の書いた画業の中で、こんな立派な作品があるだろうか、というくらいに珍しく感心した・・・・・・再び四国を訪ね、金比羅宮の障壁画の丸山応挙の作品を見た後で、図書館を訪ねて再び高橋の作品を鑑賞したのである。二度見ると、多くの場合悪く観える作品が多いが、高橋の作品はやっぱり立派であった。そのとき案内してくれた宮司の話によると、琴平で共進会があったときたくさん出品したが一枚も売れず、帰路の旅費にも困っていたので安く買い取ったというのである。

―――高橋の芸術は生まれ乍らに持っている写実力が非常に優れている・・・・・・静物画が面白い、実際のものが本当に前にあるような感じがする。見ている内に何の遮るものがない。絵でなく本物が置いてあるような実在がある。それはセザンヌの実在とまた異なっている。日本人として実に珍しい人が出たものだと私はつくづく眺めた。

 *正宗得三郎:大正・昭和期の洋画家。作家・評論家の正宗白鳥の弟。

 1880明治13年、雑誌『臥遊席珍』刊行。御雇外国人フェノロサ(アメリカ・日本美術研究家)が天絵学舎を訪れ、海外画道沿革論などを演説した。

 1881明治14年、山形県より拝命。大久保利通・上杉鷹山の肖像、県下の新道景色の油絵を描く。〔宮城県庁門外図〕も同年作。
 1883明治16年、豪農・山田荘左衛門の肖像。後年、長野県中野市でみつかり製作過程や制作費の記録がある(毎日新聞)。

 1884明治17年、栃木県より拝命。山形・福島・栃木三県下・新道景色石版画を上納。
 1885明治18年、三帖を表装して宮内省ほか諸官皇族大臣などへ配布。近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ で見られる。
  三島通庸三県道路改修抄図.「福島県」(図版53枚)/ 同「栃木県」(図版20枚)/同「山形県」(図版55枚)。
 この3県各冊、栃木県のはじめに重野安繹(歴史学者)の序、山形県の巻末には岡千仭(鹿門、当ブログ2011.5.21)の跋文、福島県は本編のみ。

 1889明治22年、日本最初の洋画団体、明治美術協会設立を後援。
 1891明治24年、岐阜県〔長良川鵜飼図〕制作
 1892明治25年11月、自伝『高橋由一履歴』私家版を印刷。筑摩書房『明治文学全集・79』に復刻あり。
 この自伝は子孫に一生のあらましを伝えたいと著したが、
「由一の死後高橋の跡は散々のことになった」と石井柏亭が『画人東西』(大雅堂1943)に書いている。石井は又、唐紙の裏打ちに水彩で描かれた漫画を次のように説明、評している。

―――「西画城印」と捺した朱印の上に、天狗の羽団扇をもった西洋人が望遠鏡を手に戦を観望。その傍らに「洋隊進め」とブラシやパレット・ナイフを振り回す洋隊の旗色がよく、日本画の一隊は刷毛や連筆などを担いでしどろもどろ逃げ出している・・・・・・「日本に於ける和洋二画派の争いを諷し明治初年の欧化熱につれて洋風画の羽振りが良かった時代が窺われて面白い」。

 1893明治26年、天絵学舎中の門弟とともに「洋画沿革展覧会」を東京築地で開催。近代日本洋画の先覚者の作品200点を展観。
 会場正面に司馬江漢(江戸後期の洋風画家・蘭学者)、川上冬崖(幕末明治期の洋画家・日本画家)、アントニオ・フォンタネージ(イタリア・工部美術学校教師)の肖像画を掲げて三人に敬意を表した。
 1894明治27年7月、死去。67歳。

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