【福島縣成行家番附】前頭・服部宇之吉
今は番付というと相撲番付ぐらいしか思い浮かばないが、昔の人は何でも番付にして楽しんだよう。
『福島県百番附』1922大正11年(大和久治編)を見ていたら、エッ、こんなのあり?
例えば、福島県禿頭番附/(以下福島県略)素人美人/素人角力/社交家/国税納税者/活動弁護士/雄弁家/忘れられたる人/芸妓組合/出身画家/囲碁名手/美髭家/愛妻家/愛鳥家/剣道家/名物男/事業家/政治家/成功家などなど番付が100枚。
写真は一枚目の「福島県成行家番付」(別に成功家あり)。
東西の横綱、野口英世と星 一(星製薬社長、作家・星新一父)。大関、林権助(外交官)と山川謙次郎(物理学者・東大総長)。関脇、仁井田益太郎と池上四郎。これら人物の職業は学者・実業家・政治家・軍人などバラバラ。また、取締は自由民権運動家・河野広中と禅僧・新井石禅師の二人。この組み合せや横綱・大関など格付け根拠は何か。訳を知れば大正期の世相が見えそうだが、説明なしだから察するしかない。
番付を見、小結・柴五郎の並び前頭・服部宇之吉が気になった。二人はそれぞれの事情で中国に滞在中に義和団事件(北清事変)に遭遇、記録を残している。
ちなみに、柴五郎『北京籠城』・服部宇之吉『北京籠城日記』を合わせた一書が東洋文庫(平凡社)にある。
次は服部の籠城日記から、
―――籠城中、戦端がひらかれ義勇隊の一部が陸戦隊とともに、戦闘線に臨みし日より、数人の義勇隊員とともに我が日本公使館の留守の任にあたりたり。同夜、柴砲兵中佐の命により、公使館を引き揚げて、戦闘に従事することになり、柴砲兵中佐に属して伝令の任にあたりたり
1899明治32年、服部は文部省から清国留学を命ぜられ北京在留中、1900明治33年義和団の乱に遭遇。日本や欧米の公使館がある北京の公使館区域が義和団や清兵に砲撃されたのである。反撃するにも各国公使館とも装備も軍人も足りず連合して守備することになった。食料も足りないが応援の各国軍隊が来るまで持ちこたえなければならない。
日本公使館も武官は3人しかおらず、民間人で義勇隊を組織、留学生の服部も隊員になった。この難局にあたり、8カ国の公使館員、軍人、民間人は連合して守備についた。全体の指揮をとったのは元陸軍将校のイギリス公使マクドナルド、作戦用兵については柴五郎が主導した(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』中井けやき)。
服部宇之吉
1867慶應3~1939昭和14年。福島県二本松藩士 服部藤八の三男。漢学者・東洋哲学者。号は瑞軒。
1890明治23年、帝国大学文科大学哲学科卒業、文部省に出仕、のち第三高等学校教授、ついで東京高等師範学校教授となる。1897明治30年、文部大臣秘書官兼文部相参事官となり、さらに文部相視学官、高等教育会議幹事を兼ねた。
1899明治32年、漢学研究のため文部相から4年間の清国留学を命ぜられ北京在住中、義和団の乱に遭う。籠城が終わりいったん帰国すると、教授法研究のためドイツ留学を命ぜられた。
留学中に東京帝国大学文科大学(東大)教授に任命される。
1902明治35年、清国政府に招かれ北京大学堂内の師範館主任教授となり中国教員を養成した。
1909明治42年、清国から帰国後、再び東大教授となり、中国哲学、中国文学を担当。1915大正4年、ハーバード大学教授。1924大正13年、東大文学部長。1926大正15年、京城帝大総長。
日華学会を主宰、中国人留学生の教育・研究上の便宜を図った。退官後は國學院総長、東方文化学院東京研究所長。
著書は『清国通考』『支那研究』『北京誌』などが知られる。
参考: 『コンサイス日本人名事典』三省堂/ 『新撰女子漢文備考』1936東京開成館。
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