台湾高等法院長 髙野孟矩(福島県新地町)
講座、講演会を聴講する楽しみは、知識もさることながら講師の行間の言葉、余談、さらに受講生同士の交歓がある。早稲田大学オープンカレッジで新幹線で早稲田に通っていた80歳の男性、目黒さんに出会った。
目黒さんは福島県相馬郡新地町にお住まいで、新地町駅から仙台駅に行って新幹線で上京されていた。その新地町が東日本大震災の津波に襲われた。海辺の家々、新地町駅も跡形もなく流されてしまった。横倒しになった電車の映像を覚えている人もあるだろう。目黒さんのお宅は幸い無事だったが、町の復興に奔走するなどたいへん忙しかったようである。その無理が祟ったらしく暫くして亡くなられた。とてもお元気な方だったので死去の知らせに驚いた。みんなで黙祷、ご冥福をお祈りしました。
その新地町を震災前の秋9月受講生有志で訪れ、目黒さんに案内して頂いた。戊辰戦跡、文化財、史跡巡りをしたのである。その中の「観海堂」という1872明治5年学制頒布直前にはじまったという藁ぶき屋根の小学校が印象に残っている。新地町は現在福島県だが明治の初めは宮城県だったそうで、観海堂は福島と宮城の両県でもっとも古い学校といわれている。
観海堂の最初の先生は仙台藩(伊達藩)養賢堂出身の氏家閑存(うじいえかんそん)。氏家は江戸の昌平黌で学び養賢堂教授となり藩主の侍講に抜擢された学者である。戊辰戦争時は奥羽列藩同盟の結成に活躍、そのために明治政府から1年間の徒刑に処せられたという。
観海堂を開くに際しては町の人たちの惜しみない協力があった。また、学校は田んぼを持ち、とれた米を売るなどして授業料を取らなかったから多くの生徒が通学した。その一人に後の台湾高等法院長髙野孟矩(たかのたけのり)がいる。
髙野孟矩
1854安政元年~1919大正8年 磐城国宇多郡(現新地町)生まれ。
父は仙台藩士伊達五郎の家臣。戊辰戦争に14歳で出征。その後、観海堂で学び、角田県立学校助教、磐前県聴訴課三春出張所勤務を経て上京した。
東京で大木喬任(東京府知事、枢密院議長)の書生となり、1880明治13年大木の推薦により検事に任用され大阪上等裁判所、島根県松江裁判所などの勤務をへて判事に転任、1891明治24年札幌裁判所長、明治27年新潟地方裁判所長などを歴任した。
1896明治29年日清戦争後日本に割譲された台湾に総督府民政局事務官として赴任、5月台湾総督府法院判官に任ぜられた。髙野42歳。
台湾の司法制度確立に赴いた髙野だが、水野遵総督代理(民政局長)ら行政官僚と台湾統治の認識に相違があった。髙野は台湾総督府の官吏の実態を批判、意見書を要路の高官に送るなどした。やがて台湾総督府内部の汚職が発覚、疑獄事件の摘発に至った。
台湾総督府内での疑獄事件頻発に、乃木希典・第3代台湾総督は人事の刷新をはかり総督府の首脳者を更迭した。そのとき不正をただす側の髙野をも非職(官吏としての地位はそのままで職務だけを免)にしたのである。
これに対し、髙野は司法官の身分は憲法に保障されていると主張して納得しなかった。そればかりか抗議書をそえて非職辞令を内閣に送り返し、高等法院に法院長として出勤した。ところが強制的に排除されてしまった。
現職裁判官が公権力をもって法院の外へ排除された事件は、台湾総督府法院判官の身分保障問題、さらに帝国憲法の台湾への適用をめぐる問題にまで発展した。これが報道されるや大きな反響をよび、世間の注目が集まった。髙野に同情があつまり、一時帰国のときには激励会、歓迎会が行われた。次は報道の一部である。
時事――― 髙野台湾高等法院長を非職処分、明治30.10.6
東京日日――― 疑獄事件が絡む、捜査は中止、30.10.8
日本――― 髙野法院長追放に強権発動 30.10.31
東京朝日――― 非職は違憲として処理 31.7.12
日本――― 軍人・官吏の横暴・不敗が端緒 32.10.4
髙野は政府の命令は不法だとして従わず抗議書を何通も内閣に提出、強硬な態度をとり続けた。世論も政府非難で盛り上がり、髙野はついに懲戒免官を申しつけられた。あくまで折れない髙野に対し、
「非は非としてそれは大抵に切り上げ、何か役に付いたがよかろう」と勧告する人もあったが、
「憲法擁護は命がけの仕事である」といって、大木伯から借り受けた二十畝の田畑を耕して生計の資にあてた(『最近社会百放談』1902 長谷川善作編)。
髙野事件は国会でも議論され松方内閣も影響を受け、また他の問題もあり総辞職した。いっぽうの髙野は、東京の郊外で農耕をしていたが1902明治35年東京地裁検事局に弁護士登録をし、前後して宮城県郡部選挙区から衆議院議員選挙に出馬した。
初陣の選挙は落選、第8回総選挙で当選を果たした。髙野はこの後も総選挙に出馬するが選挙費用によくない風説(政府よりの支出)があった。
後年またも落選を経験するが次の選挙で当選、再び衆議院議員に返り咲いた。ところが、髙野が社長の会社に係わる詐欺事件が国会で審議され、賛成多数で退職するはめになった。
不名誉な事件で議員を退いた髙野は1919大正8年、自己の経営する宮城県牡鹿郡稲井村金山金鉱を調査のため仙台駅に立ち寄ったところ駅待合所で卒倒、そのまま帰らぬ人となった。享年64歳。
台湾高等法院長非職事件が起きた当時、髙野孟矩は時の人となりたいへんもてはやされた。しかし今知る人は少ない。自分なども新地町に行かなければ知らなかった。どのような事件でどういう人物だったのか見てみようと思ったが、資料が見当たらなかった。大学図書館で「明治三十年・台湾総督府高等法院長髙野孟矩非職事件・楠精一郎」を見つけていろいろ理解でき、この資料がなければ書きようがなかった。
髙野孟矩がこれほど埋もれてしまったのは、晩年の生き方にありそうだ。歴史に名を残すのは難しい。
参考:『近代日本史の新研究 Ⅲ』北樹出版<明治三十年・台湾総督府高等法院長髙野孟矩非職事件――楠精一郎> / 「新地町の文化財」(2007.3.30編集発行 新地町教育委員会)
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コメント
初めまして。タカシと申します。
希典疑獄で検索をかけたら、こちらのブログにたどり着きました。高野孟矩については、ウェブ上でも中々情報が見つけられなかったので、とても勉強になりました。
ここ最近ですが、近現代史に関する不明を恥じて、少しずつ勉強しているところです。
乃木希典と言えば、高潔な軍人というイメージでしたが、台湾での事績を知れば知るほど修正を余儀なくされています。
高潔な軍人→高潔だけど無能な軍人→それほど高潔でもなく、無能な軍人…、というあたりで落ち着きくのでしょうか。
とりとめもないことを書いてしましました。
興味深い記事ばかりでしたので、勝手ながら今後読者の一人にさせていただきたいと思います。
投稿: タカシ | 2015年10月30日 (金) 21時43分