『お国自慢:英傑名家の出祥地』岩代国(福島県)
歴史では出身地を「国名」で記したりする。古くは、紫式部・小野小町は「山城国」、近くは、川路聖謨・勝海舟は「武蔵国」、大河ドラマ[八重の桜]でおなじみ松平容保・山川兄弟は「岩代国」。
以前、柴四朗の資料に出身地を会津若松・福島県でない岩代としたものを見、何かピンとこなかった。先日ふと思いだして岩代国を検索したら、表題の『お国自慢』や『改正小学日本地誌略字引』1879(左の写真)、『国別電報配達丁程表:附・電報島嶼配達表』岩代国(逓信省通信局 1895)など国別に記したものがいろいろあった。
まずは<国><岩代国>を『日本史辞典』(角川書店)と、『福島県民百科』(福島民友新聞社)で見みてみる。
大化の改新で国郡制が定められ国司、郡司が任命された。日本歴史でふつう国といっているのはこの国郡制の国であり、奈良時代から明治維新まで続いた。維新政府もはじめは旧国郡制を継承したが、廃藩置県を機会に郡県制にきりかえた。
岩代国は磐代国とも書き、1868明治1年12月陸奥国を磐城・岩代・陸前・陸中・陸奧の5国に分割し設置したなかの一つ。岩代国は会津・大沼・河沼・耶麻・岩瀬・安積・安達・信夫・刈田・伊具の10郡をその管下にしたが、翌年、磐城国伊達郡を併合、かわりに刈田・伊具郡を(宮城県に)割いて9郡となった。
1878明治11年会津郡を北会津と南会津の2郡に分け、岩代国は10郡となった。この岩代国は奈良時代の石背国(いわせのくに)とだいたい領域が同じで、地名はこの石背にもとづくものであるが、制定のさいに石背を岩代と間違えたとされる。
1871明治4年廃藩置県。岩代国は二本松・若松2県となり、次いで二本松県を福島県と改称。1876明治9年若松県を廃し福島県1県となった。
こうして全国に誕生した3府302県に薩長土肥の官僚が府知事、県令として派遣された。旧薩摩藩士・三島通庸が福島県令時代におこした福島事件はよく知られている。
あらゆる場で藩閥政府に偏った人材登用がなされるから、戊辰戦争敗者の立身出世は遠い。ただし、能力次第で実務的な役職にはつくことができた。行政に武士の素養、知識が必要だった。『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』の太一郎も南会津郡長を務めている。
岩代国の成り立ちを知ったので、次は人材を見てみよう。『お国自慢――英傑名家の出祥地』(牧野柳三郎1911岡本増進堂)岩代編に12人の名がある。
岩代
南光坊天海 : 信玄、家康ノ欽信深シ、東叡山寛永寺開祖
安積澹泊 : 史学家、博学能文、大日本史編纂総裁
安積艮斎 : 碩儒、修身ノ著述多ク流布ス
松本寒綠 : 篤ク宋学ヲ治メ忠孝ニシテ心ヲ辺務ニ留メ薩隅ヨリ蝦夷ニ入テ形勢ヲ講察ス
松平容保 : 会津藩主、佐幕ノ魁首、大ニ志士官兵ヲ悩マス
白虎隊 : 十五歳ヨリ十八歳ノ少年、同盟会津ヲ死守シ城陥テ皆自刃ス、小国民武門ノ花タリ
山川 浩 : 維新会津方ノ戦将、陸軍少将
今野三郎 : 樺太、黒竜江ヲ探検シ、後支那劉永福等ノ参謀ト成テ仏軍ヲ破リ印度ニ去ル
鎌田 昴 : 印度コラプール王ノ寵児ニシテ其財政顧問トナル
出羽重遠 : 海軍中将、日魯(露)役ニ第三艦隊司令官トシテ活動ス
山川健次郎 : 大学総長、重厚ニシテ剛直、浩氏ノ弟
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