山本覚馬、野澤雞一、殊勝な強盗犯
1867慶應3年末、王政復古の大号令。京にいた将軍慶喜は大阪に下り、会津・桑名の藩主もこれに従ったが一同憤激おさまらず議論沸騰、慶喜はここに至り薩摩を討つと決定。正月そうそう会津藩の精鋭は幕府の奉行所がある伏見に出陣、鳥羽・伏見の戦が始まった。と同時に、京で洋学所を開き英学・蘭学を教えていた山本覚馬と生徒の会津人子弟が薩摩藩の陣屋に幽閉された。他藩の生徒は見逃された。
目が不自由な身で監禁の身となった山本覚馬だが屈することなく、維新国家経営の「管見」を口述筆記させ薩摩藩に提出した。その口述筆記をした者が野澤雞一16歳である(当ブログ2011.5.28<星亨伝記編著者>)。
「管見」の政治・経済・教育・衛生・衣食住・風俗・衛生・貿易等の卓越した識見に西郷隆盛らが感心、幽囚中ながら扱いが丁重になった。この辺のシーン、大河ドラマ[八重の桜]にあった。これより覚馬は病院に移され療養、1869明治2年赦免される。
野澤 雞一(1852嘉永5年~1932昭和7年)
父は岩代国河沼郡野沢村の名主。肖像写真、『閑居随筆』より。
薩摩の捕虜となったとき野澤はまだ16歳、少年に厳しい現実が襲いかかるのは必至。1月5日薩摩の捕虜となった野澤は薩摩の陣所から4月二条城内*軍務官、6月六角通りの本牢に移された。六角獄舎は旧幕府町奉行時代のもので「幽陰冷湿鬼気せまり魂を消す」惨憺たるものであった。改革する暇はなくそのまま京都府庁に受け継がせたからである。
そのうえ囚徒は強盗殺人の徒だから殺伐の気風、残忍の挙動は言語に絶し、私刑で死者が出ても監視の番人は知らぬ顔「嗚呼此境に入ては人命の価値、螻蟻に若かざること遠く*牛頭馬頭の阿鼻地獄今目前に展開し」であった(野沢雞一『閑居随筆』)。
*軍務官: 軍事諸務を管掌。軍務官知事は嘉彰親王だが実権は判事・大村益次郎が掌握。
*牛頭馬頭: (ごずめず)牛頭人身・馬頭人身の地獄の獄卒。
【江戸伝馬町牢獄内の図】を見たことがあるが、牢名主は別にして囚人は満員すし詰め窮屈に並ばされ、身動きもままならない。衛生状態も悪く、獄内リンチに合わずとも病死しそう。牢はただ罪を懲らしめ罰を与える所、悔悟させ立ち直らせる所ではないのだ。
1869明治2年イギリス人を殺した犯人が牢死、イギリスは日本を詰り政府に獄制改革を要求してきた。1872明治5年陸奥宗光が獄制改革を建議。同年「監獄則」制定。
司法省の監獄行政責任者となった旧岡山藩士・小原重哉は「監獄」を創設。小原は自身の体験(幕末期3度入獄)もあり海外視察もし、新しい刑罰制度の実行に努め功があった。
六角獄舎のある日。牢名主の次に威張り散らしている為(タメ)という強盗犯が、腕の二本の黥線(罪人の入れ墨)を見せながら身の上話を始めた
―――俺はボテ振アキナヒ渡世なり賭場(ドバ)に出入りして博徒の同類となり賭銭に窮して窃盗を始め遂に本職の泥棒となり太く短く繰らし25歳を断末魔と定め其以上の寿命は入らぬものと考へたり。今度の逮捕で(黥線)三本目の暁には打首の御仕置なれども王政御一新で前科は切り捨て新規蒔直し、首の繋がること請合なり。スッカリ心を入替え、御放免後は真人間に立ち戻り正業に就く積もりなり
1868明治1年9月明治天皇即位の大礼、明治と改元。それによる大赦で野澤は放免された。ところが8ヶ月余りの獄中生活で脚気を病み立つこともできなくなっていた。府庁の役人は野澤に看護人をつけ悲田寺に預けた。しかし看護人は金をとりあげ食べ物も持ってこなかった。餓死を待つしかない病人、そんな野澤の元へ為が表れた。為は
「俺も大赦により出獄したり。今は真人間となりたれば最早俺を怖がる勿」といい病苦の少年を慰めた。お陰で餓死を免れることができたが、為のその後の消息は分からない。
野澤は六角獄舎で自分を尋問した山田輹という人物に引き取られた。覚馬が野澤の赦免を知り頼んだのである。山田は野澤をドイツから帰朝した小松済治に預け、小松は学資をだし(おそらく覚馬が)大阪開成所に入学させた。野澤はこの学校で星亨と出会い、生涯の付き合いがはじまる。
1871明治4年、星が修文館の英学教授に決まると、野澤も横浜に行き、英語や法律を学んだ。かたわら星とブラッキストーン著『英国法律全書』を翻訳した。当時、野澤は星亨ら数人と神奈川県令・陸奧宗光の家に居候したりした。
翌年、星の推薦で大蔵省に入り、新潟税関長代理として新潟に赴任。しばらく官途にあったが、東京にもどり辞職した。
1874明治7年弁護士に転身。アメリカ・エール大学に留学して法律を学んだ。帰国後は星と共に、あるいは陰で支え弁護活動をした。1889明治22年再渡米、ニューヘーベン法科大学で学んだ。帰国後は神戸地裁判事をへて公証人となり、銀座に公証人役場を設けた。
神戸地方裁判所では隔年で刑事裁判を担当、次はその一部『閑居随筆』から
―――囚人の食餌をみれば飯には分量の限定あれども副食物は豊潤なり。魚肉獣肉も供せられて珍しからず。入浴は隔日ないし一週両度許され、病めば医薬十分にして、房室は採光通風の設備完ければ夏は涼しく冬は寒風を防ぎ・・・・・・満期放免の日には罪獄中の労賃として若干の金銭を給せられる。無資貧乏の者、監獄生活を眺めたらんには温泉場に遊楽し大ホテルに安息するにも似たらん。
―――狡猾惰なる者、警察署の近傍の人家に入り傘や下駄の類を窃盗、之を携えて出署し処刑を促す輩は自営自飯の労苦を厭ひ入檻して寝食するの安佚をねがうものなり。狂気と云わんや呆れて言葉塞がる。余は以て罪を成さずと叱て退けんと提議したれども・・・・・・同僚はかほどまで切ならば望みの如く捉えて飯せしむるも国法の慈悲なるべしと弁護しこれに決したり。ここに至ては罰は賞となり禁は勧となり法の効力転倒し威厳全く地に落ちたり。
今もありそうな話、野澤の歎きは無理もない。次は呆れたコソ泥と反対の真面目に働く前科者の被告に温情判決を下したが、野澤の思いは叶わない。是非善悪の判断は難しい。
山陽鉄道・下関駅の雇工は前科者だが信用されて、鉄道会社が政府に買収されても働けることになった。判任格の雇員として登用で戸籍謄本が必要になり取り寄せると前科の記入がある。幸い戸籍係が旧友だったので前科を取り除いた謄本を作らせ鉄道局に提出した。後でそれが発覚、雇工は官文書偽造の重罪で法廷に立つことになった。
―――余之を犯意なしとして無罪を主張、且つ若し之を罰せば改悛の道を閉塞して刑事政策不可なりと論じたれども、同僚は皆動機こそ悪意なければ所為は正に為すの意ありて行へるものなれば犯罪たるを免れずと多数決を以て軽懲役6年に処断したり。余は今も尚之を遺憾と・・・・・・。
参考文献: 『閑居随筆』(1933野沢雞一)/ 『山本覚馬』(青山霞村1928同志社)/ 『高名代言人列伝』(原口令成1886土屋忠兵衛)/ デジタル資料:八重のふるさと福島県 http://www.yae-mottoshiritai.jp/ashiato/nozawakeiichi.html
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