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2013年11月23日 (土)

寒風沢島の洋式軍艦「開成丸」と三浦乾也(江戸)・小野寺鳳谷(宮城県)

 松尾芭蕉が「扶桑第一の好風」と讃えた松島を構成する島々、その一つに寒風沢(さぶさわ)島がある。この島も東日本大震災の被害で現在も多くの島民が仮設住宅で暮らしているそうで、今なお厳しく大変だ。ところで寒風沢島では、江戸末期いち早く先進技術をとりいれた日本初の洋式軍艦が建造された。造艦を主導し支えた小野寺鳳谷、完成させた三浦乾也、ともに力を尽くした人びとの情熱は島民はもちろん後生を元気づける。

 寒風沢島の港は江戸時代には伊達藩の江戸廻米の港として栄えたが、船の遭難もあった。1793寛政5年、江戸廻米船が遭難漂流ロシア船に救助され、漂流民はロシアの首都ペテルブルグに送られた。ロシアは交易交渉を進めようと貴族で露米毛皮会社重役レザノフの派遣をきめた。
 レザノフは津太夫ほか4名の漂流民を連れインド洋、ハワイ、カムチャッカをへて1804文化1年長崎に到着した。うち津太夫と佐平は島の出身者、彼らは日本人で初めて世界一周したことになる。4人は幕府に引き渡され、通商は鎖国を理由に不調に終わった。
 レザノフは帰途、その報復として樺太・択捉(エトロフ)の番所・漁船を襲撃した。

 それから数十年して幕末の仙台藩は軍政改革を推進、西洋式新技術をとりいれた軍艦「開成丸」を寒風沢島山崎で造艦した。船名は「人がまだ知得してないところを開発し、人の成さんと欲するところを全うする必要がある」(「易経」開物成務)からきている。
 建造にあたって藩校養賢堂の兵学主任・小野寺鳳谷が藩命により相模・伊豆に派遣され、幕府の洋式軍艦を視察した。そして、オランダ人から軍艦製造を学んだ三浦乾也を総棟梁として招き、建造責任者を藩天文方・村田善次郎とし建造を開始した。

 1857安政4年、完成した開成丸は長さ33m、幅7.6m、高さ5.8m、2本マスト、大砲9門を備え、進水式には藩主伊達慶邦、東北の諸藩主も寒風沢に足を運び臨席した。この年、開成丸は寒風沢――気仙沼間の試験航海に成功した。
 しかし、開成丸は進水後数年ほどで米を江戸品川に数回回漕したのち石巻で解体された。「開成丸航海日誌」(『仙台叢書17巻』)によると、江戸まで片道1ヶ月かかっており、速力不足が軍艦としての評価を下げ廃船の憂き目を招いたと考えられる(『宮城県の歴史散歩』山川出版社)。
 寒風沢漁港の海沿いに「造艦の碑」が建てられ砲台跡と共に歴史を伝える。造艦の碑文と資料を合わせて三浦乾也と小野寺鳳谷の略歴を記す。二人の幅広い知識と前向きな行動力に感心する。
 
   三浦乾也 ( ~1889明治22年)

 通称は陶蔵。江戸の陶器師、造船技術家。
 江戸の尾形乾山に陶法を学び、精巧な技術と風流な絵でもてはやされた。はじめは極く小さな動物や植物を焼いて人目を驚かせ、次第にいろいろな「器械」も作るようになった。製作したという電気擬宝珠・横浜電気雛形などがどのような物なのか筆者には見当がつかない。
 ある年、江戸から長崎に赴いてオランダ人に付き従い造船術を学んだ。のち仙台に招かれ西洋式軍艦開成丸を建造したのは前述の通り。
 その後、水戸藩徳川斉昭(烈公)に招かれ反射炉を作った。

 三浦の性格は磊落不羈で極めて無頓着であったから奇行や逸事が多っかたようだ。江戸向島の長命寺近くに住んでいたころの逸話がある。
 昔なじみの家に運慶作の閻魔様の木像があり、頼まれてその閻魔を模した像を二体焼き上げた。現物通りに彩色したところ良い出来上がりで依頼者の昔なじみに喜ばれた。もう一体は素焼きのままだったので仕上げてから渡すことにした。
 ところが金に困ったとき好事家に買いたいといわれ、素焼きの一体を売ってしまった。後でそれがバレて、昔なじみに多勢の前で度々催促される閉口したという話が『現代百家名流奇談』(1903実業之日本社)に載っている。
 1889明治22年10月7日没。年齢不詳。築地本願寺妙泉寺に葬られた(『工芸鏡2』六合館)。

   小野寺鳳谷  ~1866慶應2年)

 名は篤謙、通称は謙治、号は鳳谷。松山邑主茂庭氏家臣。長じて石巻に住み学問を教える。のち仙台藩儒員に挙げられ養賢堂教授になる。
 小野寺は海防、殖産に志があり、命をうけて西九州から東蝦夷に至るまでの地理、風俗、民族を調べ記録。その著述は『仙台藩人物叢誌』によると、海防策・西遊諸記・鉱山小誌・北遊日箋・東海蝦夷海程図ほか多数ある。

 小野寺は造艦を指揮し完成させる一方で詩文書画をよくし、自ら描いた蝦夷全図・石巻図・松島図などがある。その興味はあらゆる方面に渡っていたらしく『赤穂事件の検討』(金杉英五郎・日本医事週報社)に「小野寺鳳谷の所見」が載っている。

 小野寺は達識の士として評価され交際も広かった。とくに斎藤竹堂(陸奥国)、南摩羽峰(会津)、重野安繹(成斎・薩摩)ら漢学者・歴史家と近しかった。斎藤、南摩、重野らは昌平黌で学んだので小野寺も同学と思いたいが、書いたものが見当たらないので判らない。
 1866慶應2年4月13日死去。57歳没。年齢から察すると1809文化6年生まれと思うが、満年齢か数え年かで1年違ってくる。
 小野寺鳳谷も三浦乾也もよく仕事をし当時は名も知られていたようだが、手元の人名辞典に名はない。歴史に名を残すのは難しい。

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2022.11.6
  ―――「西洋蝋燭製造の元祖」 私は仙台の藩の出で、祖父は・・・・・小野寺鳳谷と申して、儒者でございました・・・・・御維新のとき官軍に抗戦(てむかい)した仙台ですから、父などは逃げ廻ったものと・・・・・とうとう長崎にへ赴き、語学に親しみ、あちらで理化学にすっかり興味・・・・・それから発明家のようになって、明治の御代を、発明ですごし、発明貧乏で暮らし、母などはどのくらい、苦しい所帯を張ったものか・・・・・(中略)・・・・・西洋蝋燭を製造した元祖でしょうと思います。京橋湊町い工場を所有(もつ)て、西洋蝋燭の綺麗なのを製造して、宮内省などでも御嘉納下され、ご褒美の証明書を頂いていたくらいでした・・・・・(篠田鉱造『女百話・上』岩波文庫)。

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「仙台藩の洋式艦船 開成丸の航跡 幕末の海防構想と実践の記録」
(2022-03-11)が発刊されました。

三浦乾也建造の西洋式軍艦「開成丸」についての記録で必見です。

投稿: 三浦乾也一門 | 2022年4月27日 (水) 13時50分

三浦乾也一門を調査して図録も2冊発刊しました。
すでに発表済みであれば、その著書を、未発表であれば、三浦乾也作品や、資料が残っていたら拝見したいです。

宜しくお願いします。

投稿: 三浦乾也一門 | 2022年4月27日 (水) 13時45分

小野寺鳳谷末裔です。爪の大きさほどの狐の陶器の面他が伝わっており、一体なんだろうと、思っていましたが、やっとわかりました。けんやという有名な陶工が作ったとは、祖母から聞いていましたが。
大事にします。ブログ読ませて頂き、仙台にゆかりがある様々なこと、その後の子孫も勉学に励む者が多かった家系であること、思い当たることが沢山ありました。A.H

投稿: | 2015年3月24日 (火) 13時54分

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