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2013年12月 7日 (土)

1928ワールドシリーズ、ベーブ・ルースと会った 河野安通志

 先日、県予選を勝ち抜き全国大会出場を決めた卓球コーチが、自分以外の代表がみな平成生まれだったので「昭和60年代生まれは若くない」と思ったという。昭和も遠くなりにけりか、戦中派は感慨に耽ってしまった。何にしても昭和は長い。昭和初期の青年は明治生まれだ。明治も半ばを過ぎるとスポーツが盛んになり熱中する若者も多かった。昭和のはじめ、ワールドシリーズ観戦にアメリカに行った野球人は明治生まれである。往年の早稲田大学エース河野安通志(こうのあつし)その人である。

   河野 安通志 (1884明治17年~1946昭和21年)石川県加賀市生まれ。

 父は旧加賀藩士で妻は学生野球の父・飛田穂洲(とびたすいしゅう)の妹である。河野は一家で横浜転居し旧制横浜商業高校、明治学院、早稲田大学と進み野球を続けた。第1回早慶戦に先発、試合は敗れたがその後はエースとして活躍、日本一に貢献した。監督の安部磯雄は日本一の褒美としてアメリカ遠征を大隈重信学長に願い出て叶い1905明治38年早大チームは渡米。アメリカ各地の大学や軍のチームと対戦し成績は7勝19敗、エース河野は24試合に登板した。
 この遠征で24試合を投げぬいた河野はIron Kouno(鉄腕河野)と相手から称賛され、今では珍しくはないがスローボール、ワインドアップの技術を伝えた。ワインドアップ投法はファンを魅了、画家・竹久夢二も「夢二画集―春の巻」で河野に触れている。
 ところで帰国してすぐ早慶戦が行われ、早稲田は5:0で負けた。次は河野の談話

―――翌日の新聞で河野は手をぐるぐる廻してプレートの上で踊ることばかり覚えてきた。あれでは何になるのかと悪口を書かれました。22年後の今日(昭和3年)では、ベースボールをやるところの人は中学生は無論のこと小学生の小さなところでもピッチングをやる時は手をぐるぐる廻している。あれは僕が元祖なんだ(笑い)。

 明治も半ばを過ぎ、野球人気は過熱気味で新渡戸稲造の野球熱批判や、東京朝日新聞の「野球は害毒」キャンペーンが展開されたりした。これに対し読売新聞主催「野球擁護の大演説会」が開かれ、千名を超す聴衆が集まった。小説家・押川春浪、早稲田野球部長・安部磯雄、河野安通志らが野球の効力や必要性を述べた。河野は野球害毒論の「野球をやると利き手が異常に発達するので有害」説に自らの両手を挙げて反論もした。

 1920大正9年、河野は橋戸信らと日本初プロ野球チーム・日本運動協会(芝浦協会)を創設、芝浦球場を造り本拠とした。アマチュアチームや当時人気の古巣、早大野球部と対戦していたが1923大正12年6月、初めて同じプロ天勝野球団と京城の竜山満鉄球場で対戦した。日本運動協会が勝ち越し意気上がるも9月、関東大震災が起き芝浦球場は「震災復興基地」として内務省に差し押さえられ、チームは解散した。
 解散後、河野は阪神急行電鉄の小林一二三の支援を受け本拠地を宝塚球場に移転、チーム名も宝塚運動協会と改称して再建を図った。しかし世界恐慌によりまたも解散となる。

 1928昭和3年、河野安通志はワールド・シリーズ観戦のため渡米。新聞記者の資格でアメリカの記者たちと共にシリーズが行われる球場へ移動、選手席でヤンキースのベーブ・ルースに会った。観戦記は『スポーツ年鑑』に野球人ならではの詳しい記述があるが、ここでは河野のベーブ観を『世界人の横顔』から一部引用してみる。野球を精神修養の野球道とではなく、仕事、職業として捉えている点がプロ野球の創設者らしい。
  ―――体格は実に立派なもので30貫(約112kg)もありましょう・・・・・・ヤンキースの勝因はいつも彼が作り、まるで一人舞台でした。少し専門的になるが、彼のバッティングは全く独特でゴルフを打つのと同じです。自分でも「ゲーリッグは腕で打つ。だから良い当たりの時は必ずライナーで、フライの時は必ず当たり損ねで腕のどこかに力の抜けたところがある。おれのはスゥイング・フロム・ザ・ヒール、踵で打つのだ。だからいい当たりがすれば必ず大フライで、スタンドに打ち込むかスタンドの向こうに落ちる。おれは打撃率では誰にでも勝つとはいえないがホームランなら絶対に負けない」といっています。
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  ―――彼が野球界で如何に人気を持っているかは、8万ドルという法外な給料がよくそれを表しています。昔は槍一筋で5千石と言いましたが、ベーブはバット一本で8万ドルというわけです。アメリカには職業野球団が非常に多く、数えると33ありますが、小リーグになると一人の給料の平均2~3千ドルですから1チームの人数が20人としても6万ドル足らずでベーブ一人の給料にも及びません。岩見重太郎は十人力とか二十人力とかいいますが、ベーブは給料にかけては20~30人力です。

 1934昭和9年ベーブ・ルースが大リーグ選抜チームの監督として来日。当時、ベーブはもう最後の年で実力は衰えていたが、日本の大歓迎に感激して自伝に述べている
  ―――その旅行は私たち全員にとって素晴らしい経験だった。日本人はこの7年後に奇襲を仕かけてくるのだが、あのとき彼らが示してくれた歓迎は、どう見ても本心からだった。・・・・・・振り返ってみて、やはり政府の頭がおかしくなってしまうと、やさしい国民をもどうしても戦争に追いやってしまう、また一つの例だと思う

 アメリカチームを迎え撃つ全日本もメンバーをそろえ対戦した。おおらかで、豪快で、楽しさに満ちた野球は日本人を楽しませた。もう最後の年で実力は衰えていたベーブ・ルースだが活躍はめざましく、熱気を巻き起こした。この時の河野の動静は分からない。

 写真:『野球上達法』1938ベーブ/ルース著 水谷博訳(平原社)より

 1936昭和11年プロ野球リーグが結成され河野は名古屋軍監督に迎えられるが、翌年退団し後楽園イーグルスを創設。
 1941昭和16年、ベーブの言う奇襲、真珠湾攻撃で太平洋戦争がはじまり、「大和魂」で野球をしていた河野も大和軍と改称していた球団を解散する。チーム編成どころか野球もままならない中で敗戦を迎え、翌1946昭和21年1月21日、脳出血のため急死、享年62。
 プロ野球創設と挫折の人生を終えたが、河野の蔵書は、野球体育博物館図書室の元になり、1960昭和35年、特別表彰で野球殿堂入りを果たした。

 参考:インターネット<河野安通志http://ja.wikipedia.org/wiki/
 『日米野球裏面史』2005佐山和夫(NHK出版)/ 『スポーツ年鑑昭和3年版/4年版』1929(大阪毎日新聞社・東京日日新聞社編)/ 『世界人の横顔』昭和5(四条書房) 

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 2022.8.22
   MLB 大谷翔平選手<ルース以来104年ぶり「ダブル2桁」>
   エンゼルスの大谷はオークランドでのアスレチック戦に「2番・投手兼指名打者」で先発し、6回を4安打無失点、5奪三振と好投、自己最多の10勝目(7敗)を挙げ1918年のベーブ・ルース以来、104年ぶりの「2桁勝利、2桁本塁打」を達成した(2022.8.11毎日新聞)。

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