新井奥邃(おうすい)と田中正造(宮城県・栃木県)
東日本大震災、原発事故から三度目のクリスマス前<最後の避難所閉鎖へ>という新聞記事を読んだ。福島県双葉町の住民が川俣町、さいたまスーパーアリーナ次いで埼玉県加須市に役場も移し避難所を設けていたが、年内に全員が退去する見通しになったという。
双葉町は今なお全域が避難区域に指定されているので避難所を出ても故郷に戻れない。せめて温かくして冬を切り抜けて一日も早く安住できるようにと祈るばかり。そして笑顔を取り戻すよう願っている。
自分に落ち度もないのに非道い目に遭い長く困難に陥った話は明治の昔もあった。足尾鉱毒事件である。その鉱毒事件田中正造と関わった新井奥邃(あらいおうすい)が気になった。波乱に富んだ前半生に驚くと同時に戊辰戦争中に知った著名人や同士らの縁、加えて学問もあり現実社会で立身できただろうにそっちに行かなかった。名利と無縁の世界に生き、後生を教え導き、田中正造の激烈な心にさえ休息を与えられた。その心はどんなに広く、深いのだろう。
新井奥邃 (あらいおうすい) 1846弘化3年~1922大正11年。
明治・大正期のキリスト教徒。名は常之進、奥邃は号。
1846弘化3年、仙台に生まれる。父は仙台藩士。7歳で藩校・養賢堂に入学。
1866慶應2年、抜擢され江戸遊学、昌平黌に入るも満足できなかったらしく*安井息軒の三計塾に移る。
*安井息軒(そっけん): 儒学者、昌平黌黌長。ペリー来航に際し「海防私議」を著し国防論を展開した。
徳川将軍慶喜が大政奉還し鳥羽伏見の戦いがはじまると奥邃は仙台へ帰った。奥羽越列藩同盟なり、加賀藩をも加盟させようと使者を派遣することになった。奥邃は副使として金沢へと出発したが、新潟から先へ進めず引き返した。次いで会津への使者に従い若松城で、藩主松平容保に謁するなど奔走した。しかし、藩主伊達慶邦は降服を決めた。
折しも、仙台藩の寒風沢(さぶさわ)港に榎本武揚の軍艦が寄港し仙台藩の脱走兵や志士が頼ってきた。奥邃も脱藩してこれに便乗、函館へ赴き、五稜郭に籠城した。たまたま土佐の沢辺琢磨と出会ってキリスト教の教義を聞いて興味を抱き、ロシア宣教師のニコライを訪ねたりした。
籠城するうちに奥邃は「新政府軍が攻めてくるのをただ待つより積極的に戦おう」と榎本に進言、用いられ仙台に募兵に行くことになった。奥邃と同志金成の二人は、ラッコ猟の外国船に乗り仙台で下船するつもりだった。ところが船は金を受け取りながら仙台へ寄らず房州に向かった。
二人はやむなく房州に上陸、空しく過ごしている間に五稜郭は陥落してしまった。二人は秘かに仙台へ帰ったがお尋ね者となり京へ逃れた。翌年、金成は東京に残り、奥邃は函館へ戻った。(『新井奥邃先生』1991永島忠重、その他)
函館の奥邃はニコライについてキリスト教を研究していたが金成の手紙で上京した。手紙には「森有礼・特命弁務使(全権公使)がアメリカ赴任に際し留学生を伴う。選ばれた自分に代わり奥邃を推薦した」とあった。奥邃は急ぎ上京し森金之丞(有礼)に面会、官費留学生としてアメリカに行かれることになった。
1871明治4年12月、新井は岩倉使節団と同船して渡米、年末にサンフランシスコ到着した。船には多くの留学生に交じって山川捨松ら女子留学生の姿もあった。翌年春、奥邃は他の留学生のように普通の学校に行かず、森有礼の紹介でニューヨーク・ブロクトンの*トーマス・レーク・ハリスに入門。後、奥邃はハリスを中心とする一団に従い、サンタ・ロウザへ移り、54歳で帰朝するまで原野を開拓する労働に従事しつつ修養した。
*ハリス: アメリカでも知る人が少ないが、横井小楠がハリスの風説を耳にして「この我利世界に頼むべきは実に此の人あるのみ」と感嘆している(小楠遺稿)。 現在、ハリスに対する評価は難しく評価が分かれている。
1889明治32年、奥邃帰国。待つ家族もなく、住む家もなく、帰朝後しばらくは東京の神田、角筈、滝野川辺に仮住まいした。
―――先生は曽て何らの宗派にも団体にも属されなかった。所謂宗教家らしい様子は少しも無かった。又他人に調子を合わせ、俗世と妥協するような事は固より毛頭も為さらなかった。而して苟も学を衒い自ら是とするような風は些少だも無く、常に黙々として、徒に弁を好む如き事は全く無かった(『内観祈祷録・奥邃先生の面影』1984)。
アメリカ生活30年、キリスト教を研究して帰国した奥邃は巣鴨庚申塚の二軒長屋に、少人数を集めて論語や孟子の講義をした。英語でなく漢学を教えたというのは、工藤直太郎(『新井奥邃の思想』1984著者)がいうように不思議だ。
1903明治36年大晦日、東京市外巣鴨村に一棟を新築、20人ほどの学生と住んだ。その家を謙和舎と名付け他界するまで生活した。
奥邃が帰国したころは足尾銅山鉱毒事件が表面化して大きな社会問題となっていた。帰国前年1901明治31年に田中正造が天皇に直訴という事件があった。
精錬所から出される鉱滓や有毒の汚水は渡良瀬川流域の被害を拡大し、収穫が皆無となる場合が珍しくなかった。しかし鉄と銅は軍需品生産の基礎となる資材であったから、政府は古河に適切な防災設備を採らせることを怠った。田中は衆議院議員として被害農民の陣頭に立って鉱毒運動を続けていたが、万策尽きて天皇に直訴したのである。長い戦いで家財を差し押さえられ私財を使い果たし、弁護士も政府の圧迫をおそれて訴訟を引き受ける者がいなかった。
奥邃は田中の天衣無縫、闊達な人柄を愛し同情して、門人の法学士・中村秋三郎を弁護人に推薦した。中村は田中の義挙に感銘、報酬を受けず私財を尽くして運動を助けた。
田中はクリスチャン巌本善治の紹介で奥邃と出会ったのである。奥邃の論語の講義を聞いて常に論語と聖書に親しみ、奥邃「語録」を持ち歩いた。また謙和舎の簡素、清閑な生活が気に入りたびたび泊まった。
1913大正2年、田中正造は渡良瀬川沿いの他人の家で波乱の生涯を閉じた。72歳。
密教的な原始キリスト教を信奉した新井奥邃は反戦と平和を支援、足尾鉱毒事件の他に日露関係と軍拡、シーメンス事件、女性解放などについての所見を「語録」に残している。また『読書読』を発行、詩人高村光太郎は何百回も読みかえしたという。
1922大正11年6月16日、新井奥邃死去、77歳。世田谷の森厳寺に葬られ、遺言により墓石でなく木標が建てられた。木標の記銘は内ヶ崎作三郎(ブログ・ある早稲田つながり2012.12.22)、のち石碑が建てられた。
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