教育に力を注ぐ小学校教師、花巻の歌人西塔幸子(岩手県)
澄み透る空の青さよ掌にくまむ 水の清さよ美しこの村
声あげて何か歌わむ あかあかと夕陽が染むる野面に立ちて
憂きことも束の間忘れ すなおなる心になりて山にものいふ
生きることのせつなき日なり うつしみのすくやかなれと母はのちせど
西塔幸子(さいとうこうこ) 1900明治33年~1936昭和11年 旧姓大村、本名カウ。
岩手県紫波(しわ)郡不動村(現・矢巾町やはばまち)生まれ。実家の大村家は教員一家で、祖先に名の知られた南部藩砲術指南・大村治五平がいる。
1919大正8年、岩手県師範学校女子部を卒業、当時としては珍しかった女教師の道を選んだ。幸子は郷里の岩手県内の九戸郡、下閉伊(しもへい)郡など各地の小学校で教鞭をとり、結婚後も子どもの教育に情熱を注いだ。6人の子どもを生み育て、わが子を題材にした歌も多い。また、作風から「女啄木」と呼ばれる。
幸子が教師をしていた大正・昭和初期、北上山地の人びとの暮らしは豊かではなかった。それに加えて世界経済恐慌、凶作、飢饉が重なり、子どもの出稼ぎという悲惨なこともおきた。幸子は日誌に記す
―――打ち続く農村疲弊、かてて加へての凶作、木炭業を生計とする此の地方では木炭の下落が如何にこの罪無き、爛漫の児童の生活まで脅かしゆく事か、はるばると通学してくる生気のない欠食児童の顔!
私は今日悲しいことを二つの目で見、耳で聞いた。私の曾ての教え子は(本年15歳)料理屋に売られたとの事・・・・・・細面の寂しみのあるきれいな子だった。私はその話を面白そうに話してくれた人の前で顔をそむけて目をふせた(『宮澤賢治のヒドリ』 )。
1921大正10年、磯鶏(そけい)尋常高等小学校へ、夫は鍬ヶ崎(くわがさき)の尋常高等小学校へ赴任した。
幸子は花巻の西塔家に請われて嫁入り。夫も小学校の教師でのちに校長をつとめたが、家庭は必ずしも平穏であったとはいいがたい。西塔家からすれば嫁の幸子が歌人として教師としてもてはやされ、ラジオ(盛岡放送局)にでるなど、一家して喜べないものがあった(『宮澤賢治のヒドリ』)。
1933昭和8年3月、三陸大津波の大惨事を岩手日報に投稿して惨状を訴え、県民からの共感を呼び復興に寄与した。
三陸は1960昭和35年のチリ津波でも大津波に襲われ、2011平成23年3月の東日本多震災は言葉にならないほど大惨事となった。あれから2年半になるが復旧未だし、被災地は今なお復興に励んでいる。そういった復興現場への応援サイトが見られる。その一つ「JR岩泉線復旧応援サイト」“ 西塔幸子の歌で辿る岩泉線沿線”がある。 http://www.town.iwaizumi.iwate.jp/~iwaizumiline/
1935昭和10年、幸子記
―――前年に続く凶作にて村の疲弊甚だしく児童等の意気消沈せるをみて心には悲しみの歌を歌いつつ・・・毎日数十人の児童に給食をなす。
給食の菜の代わりと折りて来し 蕗の皮むく夜のしじまに
干鱈を数いくつかに切り終へて 給食の支度今日も終へたり
幸子は子どもの教育に力を注ぐ一方、歌づくりに没頭し各方面へ投稿、女啄木といわれ注目を集めた。それにより家庭生活に不協和音が生じたが、歌への情熱は捨てなかった。凶作、出稼ぎにゆく婦女子、南米や新大陸へ移住をはかる人たちへの歌もある。
凶作に衣のうすきにふるゐる 生徒にはかなしこの校舎はも
ストーブに小石あたためふところに抱く 児等あり校にきたりて
みちのくの閉伊の郡の冷えしるく 障子なき教室に児等ふるへゐる
南米に長子も次子もありといふ 病み重る人見るにせつなき
訓練所卒へてきたれる教え子の 肌の黒きが嬉しかりけり
1936昭和11年、川井村の江繋(えつなぎ)尋常小学校に在任。
5月、急性関節リュウマチで入院。その3日後に8番目の子どもの4男を出産した。次第に弱り、「心の落ち着きを得る一首がほしい」と訴えつつ肺炎で6月22日、短い生涯を閉じた。36歳という若い死はいたましく、4男も5ヶ月後に死亡した。
遺稿歌集『山峡』(やまかい)
最後の赴任地、下閉伊郡川井村江繋(現・宮古市)に「西塔幸子記念館」があり、歌碑が村の人たちと苦楽を共にした思い出の地、川井村・新里村・岩泉町・田野畑村・矢巾町に建てられている。
江繋(えつなぎ)小は2015年、児童の減少により139年の歴史に幕を閉じた(毎日新聞2018.11.14〔山は博物館>女教師は北上山地の苦しみ歌に)。
参考:『宮澤賢治のヒドリ』2008和田文雄著・コールサック社 /『岩手県の歴史散歩』2006岩手県高等学校教育研究会地歴・山川出版社/ インターネットは歌碑のある町村、田野畑村ほかHP参照。
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