詩は臥城、人物評論は鉄拳禅 (宮城県)
詩は臥城(がじょう)、人物評論は鉄拳禅、短歌は甫(はじめ)、俳句は牛南、どれも吉野甫が使い分けた号である。吉野は小説も書けば実用書も書くという多才な人物だが知る人は少ない。筆者も東日本大震災原発事故後、ささやかな応援の気持ちから近代の東北人をブログに記すなかで行きあたった。
間口が広く的を絞りにくいので『吉野臥城評伝的著策略年譜』(1994吉野臥城研究会)を頼りに、臥城と鉄拳禅二つながら辿ってみる。
吉野臥城 (1876明治9年~1926大正15年)
1876明治9年、宮城県伊具郡角田町(角田市)に生まれる。父は帰農士族(旧臥牛城・石川藩士)吉野儀平。本名甫(はじめ)。父吉野儀平の帰農は廃藩置県と強制的な帰農政策による。わずかな耕地を与えられたものの知行を奪われ禄米に窮して内情は苦しかった。
1890明治23年、15歳。角田尋常高等小学校卒業。翌年、角田小学校代用教員。
このころから『新体詩詩歌』本を読み、落合直文【孝女白菊の歌】を愛唱、大沼畔の入日を和歌に詠んだ。吉野は詩人も短歌、俳句、新体詩を作るべきだと考えたのである。
1894明治27年日清戦争。従軍詩や軍歌が歓迎されたが、新体詩をはじめて作り、句作を試みた。
1895明治28年、従軍した一兵士の死を悼む友人の悲しみ【幻影】を『文学界』に投稿。
投稿雑誌『文庫』が創刊されると、はじめて臥城の号を用いた。『文庫』の選者は与謝野鉄幹、相馬御風らでここから一家をなした者は多い。吉野もその一人で、ほかに窪田空穂、川路柳紅、北原白秋らがいる。
1896明治29年夏、東京専門学校(早稲田)英語政治科に入学。9月8日、渡良瀬川の大洪水で足尾銅山の鉱毒水が沿岸を襲った。
1897明治30年、独学で師範学校の講習を受け小学校本科正教員の検定試験に合格、角田小学校に勤務。
3月3日足尾銅山鉱毒被害民が請願のため大挙上京。内村鑑三がこれに言及『万朝報』に英文で記事を書いた。同月24日鉱毒被害民大挙請願のため再び上京。
渡良瀬の川のはる風身にしみて
田をすきかへす男やせたり
当時、詩界は新体詩が盛んで清新の気にみち、藤村の『若菜集』が刊行されると吉野は、
―――時しくも「若菜集」が萌え出た。芭蕉葉そよぐ夕風の椽(たるき)にして之を読んだ。自分は風呂を浴びることも忘れて、この浦若い詩人の情熱の韻致と紅涙の筆痕とに恍惚として了った・・・・・・その清新のにほひと温かき血とに胸を轟かしたのは、自分ばかりではないだろう(臥城『詩壇の回想』)。
1898明治31年、内村鑑三の『東京独立雑誌』が生れると児玉花外らと同人になり詩を寄せた。吉野は内村に傾倒、『聖書之研究』創刊を祝う内村宛ての書翰など残されている。
1900明治33年、足尾鉱毒被害で為政者に対するうめき【荒村行】、川俣事件における農民多数の負傷と収監の事実に符合する詩【義人の声】を発表。
―――ああ荒寥たるかな、この村。西に落ちゆく月の色を見よ、涙をのみて泣かむとするにあらずや。なにがしの川にそひたる野末の伏屋に夜もすがら灯の消えざるは何か。心あるものは訪なへ、而して鶴の如く痩せし翁の炉辺に女と語るを聞け(後略)
1901明治34年、足尾鉱毒事件をテーマとした処女詩集『小百合集』。翌35年『野茨集』刊行。また、吉野は仙台にて俳壇を牽引、詩歌雑誌『新韻』を主宰発行した。さらに佐佐木信綱の短歌革新運動にも参加、宮城県の短歌会に大きな影響を与えた。
1905明治38年日露戦争第2年。『東北新聞』俳壇選者となる。この年、石川啄木が仙台を訪れ、吉野は土井晩翠家に案内した。啄木は晩翠に借金を申込もうとしたが切り出せず、妹に書かせた「母危篤」の偽手紙で夫人から15円借用、宿料も土井家に附けて仙台を離れた。なんとも寂しいエピソードである。
1906明治39年、吉野は単身上京、神田淡路町のあまりきれいでない下宿屋を借りた。
1908明治41年、小説『痛快』。 『明治詩集』編集、翌年姉妹編『新体詩研究』を刊行。
『明治詩集』は島崎藤村・土井晩翠・上田敏・馬場孤蝶・森鴎外など当代の16詩人が並ぶ。これを日夏耿之助は「諸家の旧功を並べ上げたもので、おのづから一種の結末をつけた意味がある」と評した。
ちなみに『明治詩集』吉野の【埋火三律】は、日露戦争で働き手を失った東北の農村が二度にわたって凶作に襲われ貧苦に陥った様を歌った長い詩。
同じ年、吉野は児玉花外、河合酔茗らと「都会詩社」を結成して詩の近代化をはかった。
1909明治42年1月、評論「文芸取締諸問題」を読売新聞1909.1.14~1.16に発表。
―――小説家を接待した西園寺内閣時代でも、文芸作品を検閲する警部などに更迭がないと見え相変わらず発売禁止が盛んである・・・・・・
1910明治43年『明治百人十句』(昭文堂)超流派的な俳句集を監修。
1913大正2年、以下、『宮城県人』<臥城吉野甫氏追討号>より
――― 二枚舌の卑劣さ、腹背面従の狡猾偽善、白々しい鉄面皮、そんなものに堪えきれずに鉄拳を振るう・・・・・・それが詩人的多血性・情熱性と結びついて義憤となり、早い「社会主義詩」とみられ、詩人的義憤を感ぜざるを得ない現実に目を蔽っていることはできなかった。またそれは『中央公論』『新公論』紙上の人物評論に縦横の貶賞を試みるに至った所以である。吉野は「新公論」編集に関係、宮地嘉六ら労働作家に発表の場を与えた。
このころから鉄拳禅の名で人物評論を発表、この方面で一家をなした。政界にも知り合いができ「大隈侯の秘書にならないかという話もあったようだ(吉野4男・裕)」。
1915大正4年『時勢と人物』『党人と官僚』『日本富豪の解剖』『現代女の解剖』と『元老と新人』(1917)、明治大正時代人物史5部作刊行。彼の社会批判の精神が示され、自由人としての反骨の確かさを示した。次はそれら著作のごく一部、
―――(白頭総裁原敬)後藤と原、二人は共に岩手県の産なるも、後藤新平は仙台領にして、原敬は南部領也。旧習慣の彼等の頭脳を支配し・・・・・・二人の間柄とかく面白からず。・・・・・・立身の系統を以て論ずれば、後藤は純官僚にして、原は準官僚也。官僚に攀縁(ひっぱりあげる)なくして立身すること能わざる当時の状勢よりすれば、才人等のここに至れるは無理もなき次第・・・・・・原は転んでも、唯は起きざるの人物也。後藤は他を押倒しても、己れの倒れざらん事を欲する男なり(『党人と官僚』)。
―――(財閥の擁護者)現下巨富を擁して実業界に雄飛するは、明治維新当時の御用商人の成上り也。・・・・・・藩閥の二大勢力圏は、長閥及び薩閥也。肥土の如きは、新政府の曙に於てこそ光を放ちたれ・・・・・・薩長両閥の二大分野は独り陸海軍のみに止まらず、官界より延いて実業界にまで及べり(『日本富豪の解剖』)。
―――(恋の一葉女史)女史は勝気で、頑固な処はあつたが、温かな、優しい女性であつたのである。ちょつと見は病身で弱々しそうであつたが、内実は降り積る雪に撓んでも折れないやうな勁さがあつた。心には自由を思うてゐても、行には放縦を許さなかつた。下町風な優しい女! 優しい内面には任侠(おきゃん)な処もあり、きさくな処もあつた・・・・・・も少し早く生まれたならば、自由民権時代の女傑となつたかもしれぬ(『現代女の解剖』)。
1922大正11年、長崎村地蔵堂1049(現豊島区)に一軒家を借り、妻花子と末子の裕を郷里から呼び寄せた。花子に会った岩野泡鳴は吉野に言った「こんないい奥さんを田舎にほったらかしておくなんて吉野君はじつにヒドイ人間だ」。
1925大正14年、雑誌『宮城県人』創刊。
―――晩年は不遇で、郷里の宮城県人会の機関誌を編集してかつがつの生計をたてていたらしい。池袋の奥の長崎に住んでいた・・・・・・臥城はとても皮肉屋で諧謔がうまく、明星の詩歌人たちの噂などして私を笑わせた(『宮城県人』印刷者・渡辺順三)。
1926大正15年2月、前年夏に煩った脳溢血が再発、4月24日没51歳。未だ若い。
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