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2014年1月25日 (土)

新潮社創立・佐藤義亮(秋田県)

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 出版物の校正について

―――この『向上の道』(全250頁)は、振仮名を別にしても、約12万という活字が入ってゐます。それを一字々々原稿とてらし合せて、違った活字を直してゆくのが、校正の仕事であって・・・・・・幾たびも読み直して行くのですが、読みながら一寸外の事を考えたりすると、もう違った活字をそのまま看過ごしてしまひますから、分秒の油断も許されません。

―――曽て明治文壇の大家だった*饗庭篁村氏の作のなかで、上野の秋の夕方、鐘がコーンと鳴ったといふのを、校正係の人が、鐘だからゴーンだろうと、濁点をつけたのであります。これで秋の静寂な感じが打ち壊されてしまったと言って、篁村氏が
校正(後生)畏るべし」と洒落まじりに慨嘆したといふ有名な話が残っていますが、濁点一つで、文豪の作の味ひを生かすか殺すかといふことにさえなるのですから、実に容易ならぬ注意がいるのであります。

  *饗庭篁村:(あえばこうそん)明治時代の小説家・劇評家。別号を竹の屋主人。
       (『向上の道』佐藤義亮著1938新潮社。写真も)

 『向上の道』著者・佐藤義亮は明治・大正期の出版人、新潮社の創立者。文芸書を読む人にはお馴染みの出版社、筆者も新潮文庫や「日本文学全集」の何冊か積ん読してる。出版社は多いが創業の経緯を知ると、書籍にも愛着が増しそう。が、気にしたことがなかった。たまたま2014.1.17「阪神大震災から19年黙祷する人」のニュースを見ていて生活の再建もさることながら心の餓えにも支えが必要、本はどうかなと思っているとき、新潮社は関東大震災後すぐ営業を再開したと知った。どうして直ぐに営業できたのだろう。

  佐藤 義亮 (よしすけ/ぎりょう) 1878明治11年~1951昭和26年。

 秋田県角館町生れ、幼名儀助、雅号橘香。早くから東京遊学を志すも家は貧しい荒物屋で中学へ行けなかった。官費の師範学校ならばと言うことで準備のため秋田市の積善学舎に入学、父と姉の嫁ぎ先からも援助を受け勉強した。しかし、文学書に親しみ学科の勉強より小説類を読みふけり、博文館の「学生筆戦場」に投書をはじめ何度か入選もした。投書仲間に吉野作造がいた。文学熱はますます嵩じ、ついに東京行きを決心する。
 1895明治28年2月、同級の友人らと3人で吹雪のなか寄宿舎を脱け出した。当時、秋田県に鉄道は敷かれていず、二日三晩かけて黒沢尻まで40里を歩き通し、そこから列車で東京に向かった。
 東京に着くと神楽坂の汚い下宿屋の一間に3人で住み、持ち金が少ないのでさっそく職探しにかかった。友人二人は会社の給仕、新聞社の活版小僧の口がみつかり、佐藤は新聞配達になった。新聞配達なら勉強をする時間があるだろうと考えたのだ。一ヶ月過ぎた頃、友人二人は音をあげ故郷に帰ってしまった。
 一人残った佐藤は貧窮のどん底で新聞配達し勉強をしたが、読みたい本が買えない。そこで、神楽坂から神田あたりの本屋で、10ページずつ立ち読みをしては一冊読み終えた。

 そのうち市ヶ谷の秀英舎の見習い職工の口を見つけ採用された。仕事はインキの樽洗いや掃除で真っ黒になって働いていた。ある日、文芸雑誌『文庫』支流の『青年文』(1895~97)に、森鴎外の文章とともに佐藤の「文学小観」が掲載された。それを秀英舎の支配人が知り、佐藤は校正部員に抜擢された。当時の校正係は記者同様の待遇であった。
 また、秀英舎は東京中の出版物を引き受けていたので、佐藤は校正をしながら新刊書を読むことができ、文壇の裏面を知り、活版や出版についても習得できた。

 当時の文壇は、赤門出(東大)と硯友社(尾崎紅葉らの文学結社『我楽多文庫』)の二派に占有されていたから、それに属さない無名作家はなかなか世に出られなかった。佐藤は自分の身の上からしても無名作家に同情、「文士となるより出版業を起こし無名作家を応援、併せて良書を刊行しよう」と決心した。

 1896明治29年、倹約を重ね夜勤を続け30円貯めた佐藤は勤務の傍ら新声社を起こし、雑誌『新聲』を発行した。『新聲』から田口掬汀(作家・美術批評家)、金子薫園(歌人)などが出、発行部数もふえていったので出版業に専念することにした。新声社は年々発展、図書出版をはじめたが業績が悪化し倒産、社屋も人手に渡った。

 1904明治37年、佐藤は新潮社を起こすと雑誌『新潮』を創刊した。このころ佐藤は外国文学の翻訳出版を考えた。今ではなんでもない事のようであるが、明治の末年には無謀に近かった。
 日露戦争が起こった年に創刊された「新潮」は文芸雑誌に成長し、新潮社は文学出版社として確立し文学書籍出版の元祖、大正から昭和にかけての文学の「水元」となったのである。
 1914大正3年「新潮文庫」を創設、大正9年には「世界文学全集」を発行、出版界での足場を固めた。以後、発展はめざましく今日の大をなすに至る。

 1923大正12年9月1日、死者・行方不明者約15万にもなる関東大震災が関東一円を襲い東京は一面の焼け野原となった。めぼしい雑誌社や出版社は印刷所とともに焼けて、書籍の飢饉となった。ところが、新潮社は社屋を4階建ての鉄筋コンクリートに建て替えたばかりで厄災を蒙らなかった。
 震災から10日後、営業を開始すると各地の書店の主人が、交通機関復旧がまだ不完全なのに、在庫品を買いに来た(佐藤義亮「出版おもいで話」)。

 新潮社の出版物は多く一々あげないが、日本で初めてのマルクスの『資本論』を高畠素之訳で出版するなど幅広い。
 仙北市角館町農村モデル図書館には新潮社の刊本が届けられ、新潮社記念文学館がある(『秋田県の不思議事典』野添憲治編2012新人物往来社)。

 参考: 『大成功者の出世の糸口』(日本教育資料刊行会1939)/『新東亜建設を誘導する人びと』(野沢嘉哉1930)、この2書の<佐藤義亮の項>は同一内容。
 『出版人の遺文-新潮社 佐藤義亮』(栗田確也・昭和43年・非売品)
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2021.11.1 毎日新聞
   <森鷗外の「身上話」直筆原稿みつかる>
   文豪・森鷗外の短編小説「身上話」の直筆原稿のうち1枚が、新潮社の社内で見つかった。洋紙に端正なペン字でつづられており、鷗外の直筆原稿が発見されるのは珍しいという・・・・・他にも夏目漱石や二葉亭四迷ら明治.大正の文豪らの資料20点が同じ冊子に貼られていた・・・・新潮社を創立した佐藤義亮が、交遊のあった作家たちとの思い出を残すために作ったとみられる・・・・・(2021.11.1毎日新聞)

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