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2014年2月 8日 (土)

生くべくんば民衆と共に、布施辰治(宮城県)

 現代は一般人でも大学で受講の機会が得られ、開放されている大学図書館もある。春先は大学のオープン講座のパンフレットが幾つも届き、カルチャーおばさんは楽しい。ところが、明治初期は若者でも学校が少なく入学して学問する事は容易ではなかった。 明治大学博物館・企画展【近代日本の幕開けと私立法律学校――神田学生街と法典論争】をみると、明治期に学校を創る、それも私立学校となると深い学問と志、二つともなければ創立できなかったと解る。
 展示は5つに分かれていたが、どのコーナーも良かったが、第Ⅱと第Ⅳいついて記すと、
 第Ⅱ: 「明治維新と文明開化」の〔会津若松戦争図〕は中央大学の創立者の一人西川鉄次郎が白虎隊士だったとして展示されている。他にも西川と同じような体験の持ち主がいて、自身も学ぶなかで学校創立をも志したと推察できる。
 ちなみに前回登場の山川健次郎も白虎隊士、西川と明治の教育者同士として交流があったかもしれない。
 第Ⅳ: 「法典論争の中の私立法律学校」はとても勉強になった。民法と商法の施行をめぐり学会・法曹界・官界・政界・経済界を巻き込んで展開した法典論争、ボアソナードや穂積陳重等など何となく耳にしていたがよく分からなかったが少し判った。
 明治期の卒業生の写真もあり、その一人布施辰治(明治法律学校/現・明治大学)の解説を読み感心、調べてみた。年譜は三省堂刊『民間学事典』『コンサイス人名事典』を参照。

   布施 辰治(ふせたつじ)

 1880明治13~1953昭和28年。大正・昭和期の弁護士・社会運動家。
        宮城県石巻蛇田村の出身。
 1900明治33年 上京して明治法律学校入学
 1902明治35年 卒業。判検事登用試験に合格し司法官試補として宇都宮裁判所に勤務したが間もなく辞職。
 1903明治36年 「トルストイの弟子」を自認し、弁護士になる。
 1906明治39年 社会主義者・山口孤剣の弁護をはじめとして、片山潜、大杉栄、金子文子などの運動家や労働運動、小作争議の弁護をする。

――― 知友が刑事被告人として法廷に立つあり。君これが弁護に当たりて縦横論究大に努む、是君が弁護士となれる動機なりとす。 爾来、刑事法に就いて熱烈考究する所あり。 博く古今東西の法理を叩き帝国現状の時勢を鑑み、立論正確比喩功名にして聴者をして常に首背感服の外なからしむ。 加ふるに恬淡瀟洒にして義侠心に厚く、救済の念旺盛なるを以て社会の信頼を得ること甚だ大也。 常に学究に耽り手に新刊の書を放たず、斬新の奇説しばしば人を驚かす 現代の法曹界の明星として帝都の中央に飛躍するもの真に結えありといふべし。
  (『御大典記念:日本ダイレクトリー』清田伊平編1915甲寅通信社)

 1917大正6年 普通選挙(男子)実施要求の普選運動をはじめる。運動は明治25年結成の普通選挙期成同盟から始まり大正デモクラシー期に全国的大衆運動になったが、大正9年原内閣は議会で普選案を否決。
 1918大正7年 米価高騰がきっかけとして日本中で起こった激しい民衆運動・米騒動の被告の弁護をした。
 1919大正8年 著作『生きんが為に:米穀騒擾事件の弁論公開』(布施辰治法律事務所)
 1920大正9年 個人雑誌『法廷より社会へ』創刊
 1921大正10年 自由法曹団の結成に参加
 1922大正11年 東京で借家人同盟を創設

 1923大正12年6月 階級闘争の犠牲者と家族救援のため「防援会」結成。
   9月亀戸事件: 関東大震災の混乱の中で、当時の革命的労働運動の組合員らが亀戸警察に不法検束された事件。総同盟から自由法曹団に調査が依頼され、布施らは虐殺された平沢計七らの死体を荒川土手に探しにいったり、証拠収集にかかったが今もって不明の部分がある。大杉栄の虐殺を警視総監に問い詰めたことは有名(『コンサイス学習人名事典』)。
 布施の活動は朝鮮・台湾にもおよび、義烈団事件、朝鮮共産党事件、二林蔗糖農民組合事件などの弁護士としても活躍した。水平社にも援助した。
 1924大正13年 『急進徹底普選即行パンフレット.1』自然社より刊行

 1926昭和1年 日本労働組合総連合会長 
 1928昭和3年 第1回普選に労農党公認で立候補
 1929昭和4年 『無産者モラトリアム』(共生閣)
 1931昭和6年 『無尽・保険・月賦・その他の掛金に対する法律知識』『家賃地代に対する法律知識』(ともに浅野書店)
 1932昭和7年 弁護士除名。社会主義弁護士として活躍、日本共産党の被告たちをも弁護したため一時、弁護士としての資格を取り上げられてしまった。
 1933昭和8年 新聞紙法違反で検挙される。『電灯争議の新戦術』(希望閣)
 1938昭和13年 『審く者・審かれる者:法廷実話』(布施辰治・中西伊之助著/春秋社)

 第二次大戦後は弁護士に復帰、日本労農救援会(日本国民救援会)などの代表となる。
 1946昭和21年 『新聞などに表れたる各政党その他の憲法改正案』 第十二〔布施辰治氏の憲法改正私案〕
 1949昭和24年三鷹事件・松川事件などの弁護に活躍
 1953昭和28年9月13日 73歳で「生くべくんば民衆と共に、死すべくんば民衆の為に」をモットーに活躍したスケールの大きい人権派の弁護士の生涯を閉じた。

 参考: 近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/  布施辰治の著作20冊以上をダウンロードし読める。

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