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2014年2月 1日 (土)

戊辰戦争、米国留学、東大総長、山川健次郎(福島・青森県)

 明治期の東大教授・山川健次郎を書こうとして、東大でその肖像を見たのを思い出し、十数年前の安田講堂での公開講座が思い出された。その講座は毎回違う先生で科目内容も異なっていた。すごく面白くてさっそく講師の著書も読んだ回と、この先生は一体何を伝えようとしているんだろうという回があった。講義が頭に入らなかったのは、ただの主婦に理解できなかっただけかも知れないが。
 それはさておき、今の社会は一般人でも大学や公共の機関で学習する機会が得られる。しかし、明治初期には入塾、入学の機会を得るのが困難な若者が多かった。まして戊辰戦争で賊軍とされた藩の出身者は、食べるのにも事欠き、志があっても勉学は大変な事だった。そんな厳しい境遇でも諦めず名を成した人物も少なくない。山川健次郎もその一人で、東京帝国大学の総長をつとめ教育に尽力した。

       山川健次郎

 1854安政1~1931昭和6年。明治大正期の物理学者・教育家。
 父は会津藩士・山川尚江で家老の家柄。兄弟姉妹みな活躍しているのは幸田露伴と似ている。長兄山川浩は陸軍少将、長姉二葉は女子高等師範学校教授、次姉は宮内省出仕(掌侍)、妹捨松はのち大山巌にのぞまれて結婚、公爵夫人。

―――腕白時代の友達としては柴四朗赤羽四郎山際永吾池上三郎など「二ノ丁辺」の者で団結し、鰊缶へ日新館へ通ったり遊んだりした。喧嘩は負けるな、大きい人の言う事を聞けなどと訓示され、武術の稽古は厳しく年長者から制裁を受ける事もあった。
  ((『男爵山川先生遺稿』1937山川健次郎著)。

 1868慶應4年、戊辰戦争で籠城一ヶ月、会津若松城は悲壮なる開城をした。そして亡国の臣となった健次郎たち会津23万石の藩士は北辺の斗南3万石に移され、惨憺たる生活難におちいる。副食物は胡麻塩ばかり、下駄などは50人中4~5人しか持ってなかった。
 1869明治2年、上京。沼間守一の塾に入り仏語と英語を学び、数学の初歩も学んだ。
 1870明治3年、北海道開拓使の推挙で健次郎は平田東助(のち官僚・政治家)、赤羽四郎(のち外交官)の3人でロシアに留学。開拓使次官黒田清隆は薩摩の出身だが反対意見を押し切り
「戊辰の役で最も男らしく戦ったのが会津と庄内藩である。士風盛んな両藩の青年を採用しようではないか」と健次郎らを留学させたのである。

―――(健次郎は講演でアメリカまで3週間余かかる太平洋上にて) 私は当時まだいくらか攘夷というような思想が抜けられず、外国人などはまだ敬する気持ちになれなかったのであるが、どうしても彼らに学ばねばならぬと感じたことは何かというと、丁度太平洋の真ん中でありましたが、今晩おそくか、或いは明日の夜明けになるであろうが、吾が会社の太平洋汽船会社の船に会うであろう。日本へ手紙を用意しておきなさいということであった。
 どうも私は、こんな広い海の上で二つの船がきちんと会う事は少しホラじゃないかと疑った。とにかく手紙をかいたのであった。然るに夜の3時か4時であった。二町も隔たった所で船を止めてこっちからボートを出して先方の手紙を受取り、此方のものを先方に渡したのであった。これを見て私は彼らの学問というものは偉いもんだ、到底日本の敵う所ではない、向こうの学問は深遠なものであるとつくづく思った。
  (『山川老先生六十年前外遊の思出』山川健次郎述1931武蔵高等学校校友会)

 1871明治4年、平田はドイツ、健次郎と赤羽はアメリカに留学。健次郎はハイスクールに入り基礎から学びエール大学で物理学を学んで学位を取得、明治8年帰国した。
 1876明治9年、東京開成学校教授補(助教授・月俸70円)、翌年、大学理学部教授補。 開成学校は幕府の蕃書調所の後身で後に大学南校さらに東京大学となる。
 1879明治12年、日本最初の理学部教授となり物理学全般の講義を担当。

―――当時は理学部の学生は少なかったが、健次郎は学生を前に耳を聾せんばかりの大声を張り上げ講義。長幹痩躯、眼光人を射る様子で教壇上を闊歩したから、学生達は
「これが白虎隊出身の山川博士か」と怖れをなしたという(『明治の人物と文化』1968弘文社)。

 1886明治19年、理科大学教授。
 1888明治21年、最初の理学博士に。中学・師範・教員学力試験委員をつとめ、実際に各試験会場に足を運んだという。
 1890明治23年、 「物理学の実験を指導して頂いたが、問題を与えられた後は、全く吾々の自由探求に任せられて、吾々の進まんとする方向に実権を進行せしめられ、然も岐路に入らざるよう丁寧親切に指導せられて、早く学術研究と云うことを理解し得た」。
  (『物理学周辺』1938中村清二著)。
1892明治25年、東京帝国大学理科大学長。「深く理学を攻究せんと思っているから」と再三辞退したものの就任。

1901明治34年、東京帝国大学総長
―――果たして君は良総長であった、大学独立の声は即ち君の時代に呱々の声を上げたのである、しかして君は*戸水博士休職事件のために、潔くその身を犠牲にしてしまった・・・・・・君今や安川氏に聘せられて、その高等工業学校に長足らんとす、九州の育英蓋し是より大いに見るべきものあらん。
   (『人物画伝』1907大阪朝日新聞社)。
*戸水事件: 日露戦争講和に際しおきた大学自治をめぐる事件。

 九州大総長、次に京都帝国大学総長に就任、大学教育の確立に尽力するとともに各種の教育関係の要職についた。

 ―――彼は平凡な学究の徒ではなく、実に気骨稜々たる国士的学者である。卒業式に際し、上流の諸名士出席列席せる面前で、学生に向かって上流社会の淫靡奢侈を痛罵、また東北視察の時、国務大臣の不品行を憤慨せる演説をしたこともあった・・・・・・正義人道の為に論議し、権勢威武に屈せずその所信を吐露する硬骨男子である。身を持すること謹厳で平素綿服を纏ひ、家にいても袴を脱ぐことがないが温厚な君子人である。
   (『名士立志伝』1916秋野村夫著)。

1904明治37年、勅選貴族院議員。
―――日露戦争が始まると山川家は一家総出で紙縒(こより)の大量生産に着手、陸軍恤兵部に包装用として贈った。その用紙は古手紙類を用いて毎日数千本の紙縒を作った。
  (『明治文明奇譚』1943菊池寛著)。

1915大正4年、男爵
1923大正12年、枢密顧問官
1927昭和2年、『戊辰殉難者名簿・校訂』山川健次郎編・飯沼関彌
 晩年は中央教科団体連合会や国本社に関係し、国家主義的な教化運動につとめた。

 
1931昭和6年 「先生は怖ろしい、然しまた最も優しい先生である・・・・・・ご臨終の後大学で解剖をせらるる間、室外で終るのを御待ちして最後の清められた恩師の尊容を拝した時の私の心の寂しさは今に痛切に身に迫るを覚える」(中村清二・昭和6年7月12日稿)。

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