明治期の法律学者、菊池武夫(岩手県)
春3月は卒業シーズン。開化日本の留学生はどの様に卒業式を迎えたのだろう。『明治日本発掘』に【山川捨松の卒業演説が評判】という記事があった。のちの東大総長、会津の山川健次郎妹の捨松が開拓使からアメリカ留学に派遣されて10年、成績優秀で選ばれてしたアメリカ・ワスクル大学卒業演説についてである。
――― 演説は日本に対する英国の政略といえる題にて、はなはだしく我が日本輸出入の不平均より、まったく英国の条約改正を拒む心術に論究せしに、喝采の声場中を振動し、余響しばらく止まざりし(明治15.7.29朝日)
記事は、「一身の栄誉のみならず、我が日本国の一大面目」と結ばれているが、帰国後、捨松の能力は活かされなかった。薩摩の大山巌元帥に嫁してのち、大山夫人として鹿鳴館で洋行帰りの知識を活かせたのである。明治日本の女子たちが活躍する場は少なかった。
男子の留学後の将来は保証されたも同然、東北出身者も留学の機会を願った。捨松の兄で旧会津藩士・山川健次郎も開拓使から派遣されてアメリカ・エール大学を卒業、帰国後に開成学校(のち東大)教授補となった。
山川が帰国した1875明治8年、小村寿太郎や旧南部藩士・菊池武夫らが開成学校からアメリカに留学した。菊池は中央大学の初代学長となった法律家である。
菊池武夫 1854安政1~1912明治45年
盛岡加賀野に生まれる。父は南部藩目付役で町奉行、用人役も兼ねていた。11歳のとき藩の儒者・江幡五郎について漢学を学び、次いで藩校・修文館に入学したが間もなく戊辰戦争がはじまった。南部藩は洋風の練兵をし、藩士を15歳以上と以下に分け、少年の組を豆隊・小豆隊と唱え武夫もその一人であった。
戊辰戦争が終わり、武夫は単身上京を志したが父に反対される。しかし諦めず許しを得て1869明治2年、15歳、の武夫はなんとか上京した。父に学資をもらえなかったので無一文の身を麻布の南部藩邸に寄せた。藩邸の目付役、谷が武夫を憐れみ、また志をほめ英麿君の近侍に抜擢してくれた。
1年ほどして英麿君が帰国することになり、未だ学問の道に入れないでいる武夫も付き従い、郷里に戻った。翌年、ついに南部候が学資を給し上京遊学が許された。
写真、『菊池先生伝』より。
再度上京した武夫は伊藤庄之助について英語を学び、大学南校(のち開成学校)に入学し法律を学んだ。同じクラスに鳩山和夫(のち衆院議長、早大総長)がいた。そして、前述のように文部相第1回留学生に選ばれて5年間アメリカに留学したのである。
郷里の藩校・作人館の後輩、佐藤昌介は武夫について、
―――菊池君は18、9歳かと思はれ眉目秀麗なる好紳士にて・・・・・・小生は北海道に渡り札幌農学校の学生となり、ボストンの菊池君と文書の交換をしておった。
―――菊池君は北海道へも来たことがある。一度は山田顕義司法大臣(のち日本大学創立)の秘書官として、一度は岡野敬次郎、土方寧諸氏と中央大学の校務を以て来られたのである。育英事業にも功績のある人である。(『菊池先生伝』)
1880明治13年10月、帰国27歳。11月、司法省に入り、少書記官兼翻訳課勤務、司法大臣秘書官、民事局長などを歴任。その間、東京大学法律講師、*英吉利法律学校設立に力をつくし、1888明治21年わが国における最初の法学博士となった。
*英吉利(イギリス)法律学校: 1885明治18年、穂積陳重(法学者、のち枢密院議長)らによって東京神田錦町に設立。当時優勢であったフランス法学派に対抗し、実地応用を旨とするイギリス法学を講じた。のち東京法学院(中央大学)。
司法省民事局時代について、部下の長島鷲太郎は次のように話している
―――先生は詰め襟の運動服を着用せられ砂土原町の私邸より、徒歩にて大手町の役所に通勤せらるるを見受けた。威儀を保ちうると信じたる当時の官人と比較して吾々は頗る異様に感じたのである。
1891明治24年3月、東京法学院院長に選ばれる(中央大学初代学長)。官吏生活12年のその頃、
―――司法省の官制に改革があり民刑両局の廃止、(菊池)先生に対し特に総務局長の椅子を擬せんとしたるに、先生は人の為に官を設くるを不可とし固辞して受けず、敢然官界を去りて身を在野法曹の群れに投ぜられた。
辞職した武夫は同年9月、代言人免許を受け代言事務所を開く。12月貴族院議員。 1893明治26年、弁護士登録を受け、没するまで弁護士生活22年の間に、日本弁護士協会を創立、また東京弁護士会議長、会長を務めた。
1912明治45年、58歳で没。
伝記叢書『菊池先生伝』(新井要太郎編1997大空社)には、新渡戸稲造らによる追想録が多く掲載され、人柄や業績が偲ばれる。
菊池 イチ子
ちなみに、菊池武夫の妻イチ子は、東京府女子師範学校第1回卒業生で賢夫人と評判だった。2男8女、10人の子を育てあげた。イチ子は児らが幼い時は乳母をつけ大事にしたが、成長すると何処に嫁いでもしっかり家事がとれるようにと躾けた。
―――小児の養育については特に衛生に注意し、飯の如きは一々釜を異にして之を炊がしめたり、こは長者には硬きを与え、幼者には柔らかきを喰はしめんとの用意にして、年齢によりて其の硬柔の度に幾段の差別あらしめたるなり(『家庭の教育』1901読売新聞)。
これまでさまざまな分野の人物を取り上げたが、その妻について書かれたものを見なかった。菊池夫人が記事になったのは、賢夫人の評判が高かったせいだろう。明治期は山川捨松でも判るように、女性自身の能力より内助の功が評価された時代だったのだ。
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余談: 同姓同名の菊地武夫、陸軍軍人で日露戦争には中隊長で出征。のち貴族院議員。天皇機関説攻撃の先頭にたった。男爵。敗戦後、戦犯に指名されたが釈放された(『コンサイス人名事典』三省堂)。
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