袴の代名詞・仙台平、小松彌右衛門(宮城県)
小学校の卒業式、孫の担任女性教諭は着物に袴、きりっとして見目よかった。教え子の6年生も見なれた先生の改まった袴姿に、よりいっそう卒業を実感したでしょう。
♪仰げば尊し 全員で合唱、自分も小声で合わせたが 「身を立て 名をあげ やよ励めよ~」 にちょっと詰まった。今はそういう時代じゃなさそうだから。まあそれはさておき、男女ともに袴姿は凛々しい。その袴の代名詞ともいえるのが仙台平、江戸時代に仙台で織り始められた男子儀式用の袴地である。
『郷土産業開発の跡』(1939 鉄道省編・博文館)によれば、
――― 仙台平の元祖は、(昭和10年代)仙台市良学院丁に機業場を持っている小松富一郎の祖先、彌右衛門である。彌右衛門は京都の人で1711正徳元年に「御兵具方」として伊達家に召し抱えられ、主として藩の軍服を縫っていた。
1713正徳3年、藩主伊達吉村の時、御織物師として彌右衛門が選ばれこの任に当たった。彌右衛門は藩主の命で竹に雀の紋所のあるお召物を織り出したところ、その織出といい光沢といい京都の西陣に比べて出来栄えがよかったので、大いに面目を施した。
彌右衛門は機業を伝習するかたわら、養蚕業にも意を用い製糸の改良に努力した。その頃、本吉郡から製出した生糸はこれを金華山といって御用糸に用いられ、この生糸で袴地を織出して精巧なものを完成した。これが仙台平の織り始めで、ただ御袴地といっていたが、他藩から仙台平と名付けられた。
明治維新後、御用機屋はなくなり仙台平の製造を中止した。しかし1873明治6年、小松彌右衛門の子孫が再興、機業工場も増えて仙台市の重要物産に成長した。
ところが、それから百年以上たつ平成の今、和服を着る人はめっきり減り、袴となるともっと限られる。とはいえ、伝統ある織りの技術は受け継がれている事でしょう。
話は変わるが、思わぬところで江戸時代の仙台平人気を知った。『徳川時代の賄賂史管見』【一夏中に仙台平三百反】によると、仙台平は幕府役人への格好の賄賂、名産品だったようだ。
――― *祐筆組頭の荒井甚之丞という者が一夏、各方面から贈られた袴地の内、仙台平だけを調べてみたら三百反もあったとの事であります。
*祐筆: 江戸幕府では老中・若年寄の下で機密文書を扱うのが奥祐筆で、組頭をはじめ祐筆らが諸侯からもらう賄賂はそうとうなものだったらしい。
賄賂の理由は、幕府が日光の御修繕とか、台場の新設、印旛沼の改修とか堤防の修繕とか土木工事を大名に命じるが、そのお手伝いとか御用金の多寡は、藩の運命を左右するほど大変な負担で、各藩は戦々恐々としていたからである。
大名に課す土木工事やお手伝い、御用金については老中が原案を作成するのだが、殿様育ちの老中方は出来ないので、奥祐筆の組頭が作成した。それを老中方に差し出すと、老中方は盲判を押すだけだった。という次第で、各藩は平生から祐筆たちに付け届けをし、なるべく負担の軽い役目にして貰うようにしていた。各大名は祐筆に骨折りをしてもらうからと、莫大な贈賄をしたのである。
賄賂の一例として「料理切手」、今で言う商品券が既に使われていた。
天保の頃、船橋勘右衛門という祐筆組頭が、有名な向島八百善の料理切手をもらい、たまたま用人に与えた。用人は連れと三人で八百善に行き、山のようなご馳走を食べ、帰ろうとすると、残った分とし15両も渡された。その料理切手は50両以上の値打ちだったのである。
そうした役人に対する落首
盗人猛々しいは袴着る ――― 袴着た盗人、即ち役人の賄賂取りを皮肉ったもので、当時は夜は入る盗人よりも此方が一般から怖がられていた。
役人の骨っぽいのは猪牙に乗せ ――― 役人買収の秘法である酒肴の饗応を言ったもの。
これに続けて『徳川時代の賄賂史管見』の筆者・中瀬勝太郎は、 「今も昔もこの事には変わりがない様であります」 と結んでいる。
参考: 近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/『経済倶楽部講演 80輯』(徳川時代の賄賂史管見)1935榊原周平編集・東洋経済出版部
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