宮沢賢治と妹トシ(岩手県)
「吾ヲシテ最モ意義アル生活ヲナサシメント欲ス」
これは宮沢賢治最愛の妹トシの入学時の決心である。毎日新聞“日本女子大で直筆答案発見”の記事(2014.4.17)
草創期の日本女子大学校で学んだ人々が「実践理論」の講義で提出した自己調書や答案が見つかった。資料は日本女子大学成瀬記念館で公開(~6月7日迄)されているそうで見てみたい。
記事には、平塚らいてう「実践理論」答案と宮沢トシの「自己調書」の写真があり、トシは「元始、女性は太陽であった」で知られる平塚らいてうの後輩と知った。
賢治の妹を幼いと決めつけていたから大正期の女子学生と知って、お互いの進む道が理解できた兄妹だったと想像できた。
写真は、6歳ころの賢治とトシ(森荘已池『宮沢賢治』より)。
1896明治29年8月1日、宮沢賢治、父・宮沢政次郎 母・イチの長男として稗貫郡花巻町鍛治町、母の実家で生まれる。
1898明治31年11月5日、トシが岩手県稗貫郡花巻川口町303に生まれる。トシは清六、しげ、くにの5人兄妹の長女。
宮沢家は祖父の代は質屋、父の代に呉服屋・古着屋をするなどして裕福であった。
宮沢賢治について、作品・伝記評論・研究など数多くあり、賢治の大ファン井上ひさしの「風景はなみだにゆすれ」などもよく知られている。が、ここでは賢治・トシ兄妹を知る賢治の親友、*森荘已池の『宮沢賢治』(小学館1943)を主に参考にした。
*森荘已池:もりそういち・本名は佐一。1907明治40年盛岡市生まれ。
1943昭和18年「蛾と笹舟」「山畠」で直木賞受賞。中学生のとき、賢治が森の家を訪れ深い交流が始まった。賢治没後、全集の編集に携わり賢治を紹介し続けた。
まだ電灯もつかないランプを使用していた時代に、宮沢家の主、政次郎は子どもたちをつれて散歩したり、冬の夜にはカルタ会、茶話会などを催した。兄賢治と3歳違いのトシはこのような商家に育ち、東京の日本女大学へ入学した。
このたび発見され毎日新聞に載ったトシの「自己調書」には、
「意志薄弱、陰鬱(いんうつ)、消極的、その他大抵の短所を具有す」ときちょうめんな字で書かれている。真面目で内省的な性格のようだ。
1920大正9年、日本女子大在学中のトシは流行性感冒にかかり、東京・小石川の病院に入院。賢治は知らせを受け、家族と相談して上京、妹の看病にあたった。トシの入院中、賢治は毎日病院に通い、付添の看護婦が側を離れたときには便の始末までした。そして、病状を知らせるハガキを毎日書いては花巻に送った。やがて、トシの病状がよくなると、いろいろおもしろい話をしたり、本を買ってきてトシに読んで聞かせたりした。そのうち母も上京し母子で病院に通い、トシが快復すると賢治は花巻に戻った。
賢治は日蓮宗を信仰していた。ところが、宮沢家は代々親鸞の浄土真宗を信仰していたので賢治は父母に改宗をせまった。しかし、断られた。
1921大正10年1月、賢治は汽車賃だけをもって花巻の家をでた。
上京した賢治は、本郷の東大前に住み、*筆耕の仕事をして生活をし、夜は下谷の国柱会(日蓮宗)へいって伝道を手伝い、日曜日は上野の図書館にいって勉強した。
*筆耕:ひっこう。文章を写したり謄写版(とうしゃばん)で印刷したりすること。
そのころの賢治は父からの送金を遣わず返してしまい、一日一食、ジャガイモの煮たものに塩をつけて食べ、水を飲んで済ませていた。
4月になり賢治を心配した父が上京、父子で関西奈良地方を旅行した。
7月、女子大を卒業して郷里の花巻女学校教諭をしていた妹のトシが病気になる。知らせを受けた賢治はすぐに帰省。このころから「心象スケッチ」自由形式の詩を書きはじめていたので、大行李にどっさり童話や詩の原稿をつめて花巻へ帰った。
12月、賢治は花巻農学校の教師になり、以後4年在職した。
1922大正11年11月、トシが肺結核で死亡。24歳はまだこれから、若すぎる死は何ともいたましい。最愛の妹の死に大きなショックを受けた賢治、一夜で有名な「永訣の朝」を書き上げた。“けふのうちに とおくへいつてしまふ わたくしのいもうとよ”で始まる詩は文末に引用した。
1933昭和8年、宮沢賢治37歳で死去。しばらくしてから弟の清六が残った原稿を整理中に、小さな手帳の鉛筆書き「雨ニモマケズ」を見つけた。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノアツサニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
野原ノ松ノ林の蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコワガラナクモイイトイヒ
北にケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボウトヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
永訣の朝
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてへはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつさう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(とうわん)に
おまえがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛(そうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしょうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまえはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・・
・・・ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうえにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系(にそうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしょにそだつてきたあいだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あぁあのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあおじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらぼうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
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