観古会・竜池会・東京美術学校、高村光雲(江戸下谷)
桜前線が北上しているが、今はどのあたりかな。写真は2014.3.29谷中墓地、江戸時代富くじが行われていた天王寺前の桜並木である。
五分咲きの花のトンネル、途中に旧会津藩士・南摩羽峰(綱紀、のち東大教授)の碑があるが、それを横目に実家の墓所、感応寺に向かった。そこには『渋江抽斎』(森鴎外著)の墓があり、上野界隈を史跡巡りする人と行き交うこともある。お婿さんと二人で墓参りしてから彼の案内で根津、東大・弥生美術館/竹下夢二美術館そばの花見場所に向かった。
谷中から根津へ、ヤネセン(谷中・根津・千駄木)は恰好の散歩路、下町歩きを楽しみつつ会場のお宅へ伺った。今日日、例年の戸外花見地が禁じられ、やむなく室内で花見となったという。広いリビングに仕事関係、ご近所、ワイン繋がりの男女20人が三々五々やって来、持ち寄りのご馳走や飲み物を並べ口腹とも楽しんだ。久しぶり現役ばりばりの若い世代に囲まれ、ついつい浮かれたが中締めでお暇した。
午後の日差しの中、のんびり行くとじきに「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑があった。そういえば東大博物館で弥生式土器を見た、そんな事を思い出し歩いていたら上野公園の東京芸術大学の前にでた。ここの美術館で高村光太郎と高村光雲父子の彫刻を見たことがある。
東京芸術大学は、1887明治20年創立された東京美術学校と東京音楽学校とが戦後、新学制により合併した大学である。美術館に入らずとも学食を一般も利用でき、安い学食は上野散歩で疲れた身の一休みにいい場所だ。
芸大の前身、東京美術学校は創立に尽力し校長になった岡倉天心が有名だが、彫刻家教授に迎えられた高村光雲もよく知られる。今、音楽や美術は身近だが、戊辰の戦乱の余波が消えてない明治初めは芸術は暮らしに遠かった。彫刻家・高村光雲もはじめは仏師に弟子入り、西洋の脂土(あぶらつち)や石膏に心惹かれていた。
――― 虎ノ門際の辰ノ口に工部省で建てた工部学校では西洋人を教師に傭って、油絵や西洋彫刻を修業しているのだという評判・・・・・・生徒には藤田文三氏や大熊氏広氏などがいるようであるが、自分は純然たる仏師のこととて、まるで世界が違う。
・・・・・・脂土は、附けたり、減らしたり自由自在にできるから、何でも思うように実物の形が作れる。その出来た原形へ「石膏」を被せ掛けて型を取るのだそうな。
・・・・・・木彫りは一度肉を取りすぎると、それを再び附け加えることはできない。この不自由なのに対して、増減自在・・・・・・「どうだろう。脂土の売り物はないだろうか」(『幕末維新懐古談』高村光雲著1995岩波文庫――田村松魚と息子光太郎の聞き書き)。
さて、明治の美術会は前出、「光雲の懐古談」によると、
1880明治13年頃、日本の絵画、彫刻その他の工芸的制作が衰退するのを案じた数奇者(すきしゃ)、日本の美術工芸を愛好する山高信離・山本五郎・納富介次郎・松尾儀助ら10人足らずが、お互いに所蔵している古美術品を持ち寄って、鑑賞し、批評しあって研究することにした。そこへ制作する側の人も加わり月一回ずつの催しを始めた。
場所は上野池ノ端弁天の境内静池院(せいちいん)、それで龍(竜)池会と名付けた。だんだん会員も増え、絵画・彫刻・蒔絵・金工の諸家も入会し発展、そこで日本美術協会と名を改め、会頭は佐野常民(日本赤十字社初代社長)、年に一度展覧会を開いた。これが観古美術会である。
観古美術会は、会員所蔵の逸品も数限りがあるので、上流諸家や宮内省御物からも拝借して陳列、それを一般に公開した。会場は下谷の海禅寺(合羽橋)、東本願寺などで行い、美術の普及に功績があった。
観古美術会出品目録を見ると、
第5回:大熊氏広(のち靖国神社大村益次郎像制作)は、木彫で[山部赤人像]を出品。
第6回:山東直砥が所蔵の[薩摩焼水注]を出品。
[鵜ノ斑薬建水]を制作出品した光雲は維新のさい木彫界は衰退、他に転身するものが多かった中で精進を続けていたのである。
1884明治17年、岡倉天心(覚三)が竜池会入会。天心は東大を卒業後、文部相に入り美術行政官(音楽図書・美術取調係)となり、フェノロサに随行して近畿の古社寺を訪れたり、欧米に派遣され美術品の調査をした。
同年、築地本願寺で第1回新古展覧会開催、高村光雲は白檀で蝦蟇仙人を彫り出品、3等賞。のちに、光雲を東京美術学校教師に招いた岡倉天心は光雲について、
――― 彫刻界においては高村光雲の写生主義大いに行われたると同時に、日本新聞の主唱に係わる歴史的の大作あり、住友家の創意になれる楠公の銅像あり。老西郷の像、北白川宮の御肖像など、陸続出で来たれり
ちなみに上野公園内観音堂の裏手に光雲作・西郷隆盛像がある。
1887明治20年、ヨーロッパ出張から帰国した天心は東京美術学校幹事。
1889明治22年、東京美術学校開校。翌年、岡倉天心が校長となり、国粋主義的立場に立つ美術官僚としての手腕を発揮したが、天心を排斥する事件が起こり、*非職となる。
以後、天心は民間在野で国民芸術の創造に邁進する(『民間学事典』佐藤能丸)。
* 非職: 官吏の地位をそのままで職務のみ免じること。1884明治17年の条例によれば、3年を一期とし現給3分の一を支給、満期免官(『近現代史用語辞典』安岡昭男編)。
1893明治26年、光雲はシカゴ万博博覧会に「老猿」を出品受賞。その後は、古社寺保存会員、文展審査員などを歴任、木彫界に重きをなし、その門から平櫛田中らを出した。1934昭和9年、82歳で没。
余談: ブログ記事を書いている最中、毎日新聞<夢二晩年の日本画、「宵待草」を発見>と、弥生美術館が発表という記事を見た。本日、4月4日から6月29日まで特別展示される。
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