時計商・松浦玉圃は美術工芸も秀逸 (宮城県仙台)
<松浦玉圃 客を窘(たしな)む>
松浦玉圃は神田小川町の時計屋なり。気骨抜群、書生を愛して已に670余生の証人となる。一日店頭客あって懐中時計の立派なるを尋ね、是れ兄なる一紳、弟なる一生に与えんとするもの弟をして、散々選ばしめて以て結句代金30円なるものを購求す。玉圃瞥見して喝して曰く「その時計なら書生には過分(すぎ)てゐる、兄君が持つのだと思つたら・・・篦棒(べらぼう)な」、二客色を変じて怒髪帽を刺す、玉圃乃ち紙片を取つて狂歌一首を書す。
楽しみを後に残して苦しめよ 書生に金は身を破るもと
と、二客読下してその訓戒に服し、高価の時計を返して僅々10円のものに代ふ、侠商玉圃の如きは滅多に得難いと謂つべし。 (『名士奇聞録』1911橘溢生)
明治半ばを過ぎても時計は学生にとって高価だろう。それを金に任せて学生の弟に買い与えようとする兄。それを見た店主は儲けを喜ぶどころか、べらぼうな話だと渇を入れたというからおもしろい。客はひどく怒ったものの、狂歌の趣意に納得した。
「若いうち苦労は買ってもせよ、大金は身を誤らせる」はいつの世も同じ。説教でなく狂歌でさとした店主の教養、素直に聞き入れた兄弟、双方に感心。欲得ずくでない松浦玉圃、いったいどんな人物か。以下、大槻文彦著『松浦玉圃伝』(1889飯田宏作編)など参考にみてみた。
松浦 玉圃(1839天保10年~?)
先祖は肥前松浦の浪人。仙台に流れ来、五代目が松浦屋を称し麹を業とした。玉圃の父五郎助は八代目、天保の飢饉の際に貧者に米や銭を施した。母は仙台河原町吉岡屋儀右衛門の娘えい、子は男女6人。
1839天保10年に次男栄松(玉圃)生れる。この年父死去。母は子育てに奮闘し68歳迄生きたが、母も施与を好み葬儀のさい墓所が供花で埋もれたという。母は子らに学問、謡曲など習い事をさせ玉圃はとくに彫刻を好んだ。
1857安政4年、19歳の玉圃は江戸に出て愛宕下の仙台藩邸にいる桂島斧吉に竹木、金石、玉角を彫る技を学んだ。やがて画法を知らないと進歩がないと気づき幕府絵師・狩野梅軒の塾に入り修業に励むが、実家の兄のすすめもあり母を気遣い帰郷した。
仙台に帰った玉圃は、彫刻の技をもって藩の門閥諸家に出入りし喜ばれた。しかし作品を売らなかったので暮らしがたたない。兄たちが心配して玉圃に、勤め先を見つけたり、商売をさせたが上手くいかなかった。余りにも欲がなさ過ぎるのだ。
1863文久3年、25歳になり兄の世話で広瀬川の崖上の邸を手に入れ、その家から大槻盤渓の元に通い詩を学んだ。盤渓が詩会開くと玉圃は末席で見学しつつ学んだ。
1868戊辰2月、京へ赴く藩の重役に玉圃も随従を許され、松島湾から藩の汽船・宮城丸に乗り神戸の港に向かい、神戸から京へ入り仙台藩邸に寄食した。折しも戊辰の騒擾のさなか、玉圃は商人の身を忘れて時事に没頭した。5月、ついに仙台藩は白河で開戦。
京の玉圃は仙台領江洲の陣屋に赴き、銃丸の製造を担任したが、銃丸は古く使い物にならない。その間にも戦は激しさを増し、藩士一同は仙台へ引き揚げることになった。玉圃もさんざんな目に遭いながら数十日かけて仙台に帰りつき、戊辰戦争は終わった。
戊辰戦争を首謀したとして仙台藩重役・伹木土佐が辞職すると邸はひっそり。玉圃はその伹木家を訪れて慰め、また獄に入れられた師の大槻盤渓の留守宅も見舞い助力した。
明治維新後、玉圃は邸宅(皆宜園)を没収横取りされそうになり、岡鹿門(千仞)に相談した。
岡は玉圃に書面を与え、玉圃はそれを藩の参政に差出し説明もして取上げられずにすんだ。この騒ぎで玉圃は藩士の困窮を知り、藩士の子弟に職を与えようと邸内に工場を作った。75人集まり、その工徒の中に絵画篆刻を業とし、名をなした者があった。
1872明治5年、玉圃は東京に出、かねて興味のあった時計の商売をする事にした。同郷の佐和正(後藤正左衛門)から、警視庁時計修理の入札があると聞き、応じて落札。以来、警視庁御用達となる。その頃、玉圃の仮住いには故郷の食客が78人もいて茶碗や箸は共用という有様だった。しかし、玉圃は意に介さない。やがて古家を買い引越した。
1875明治8年、玉圃は尼崎藩士・土屋政暘の娘を妻に迎え、のち男女4人の子をもうけた。
1877明治10年、西南戦争。巡査が一時東京に集まると、玉圃は巡査屯集所に出入りして時計を売った。玉圃は時計を仕入れるため何度も横浜と東京を往復。宮城県の巡査はみな玉圃から時計を買ったので玉圃は財をなし、以前大火で焼けてしまった家を新築することができた。
しかし、景気が悪くなり、玉圃は時計の行商をはじめた。横浜28番館で仕入れた時計を薄利で売ったのである。そのため同業者が争って時計を買ったので玉圃はまた儲かった。
1888明治21年、玉圃は父の五十年忌に妻と子を連れて帰郷。すると仙台停車場には四、五百人もが迎えにきていた。その後の大宴会は推して知るべし。その時の狂歌、
積善の家に余けいな馳走より 親にかうこでちょつと一盃
1890明治23年、東京神田区錦町に引越、新築開店すると仙台出身の学生が紅白の大旗で祝い、新聞に投書し宣伝してくれた。この店で早稲田の学生が10円の時計を買ったのである。
松浦玉圃と工芸
玉圃は時計に金象眼を施して博覧会に出品して褒賞を得たことがある。また、ガラスに着色して焼く技術を研究すること7年、盃、皿、諸器に精緻な彩画を施すその嚆矢となった。
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<焼付コップ、びいどろ、ギヤマン、氷コップ、江戸硝子>なんか和風で珍しい感じだなぁと思ったガラスのコップが40万円。説明によれば松浦玉圃の約130年ほど前の作品、大きさは9×6.2cm「日本で初めてガラスに焼付け上絵付(エナメル彩)を試みた松浦玉圃作、垂れ柳にサギ文コップ」
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<エナメル彩桜に雀図ガラスコップ>松浦玉圃、 明治中期、 びいどろ史料庫
玉圃は湯呑みに彩画して焼き、熱湯を注いでも割れなかったので実用品に応用した。
「らんぷ」の「ほや」を強烈な火力にしても破裂しない製品も作り、1896明治29年、ガラス店開業。
1899明治32年5月、玉圃の還暦祝い。荒井泰治が大槻文彦に小伝を依頼し賀客に配る。
1908明治41年、『紅療法講演録』(*山内啓二述、松浦玉圃筆記、大槻文彦序、後藤新平題字、大気堂刊)
*紅療法の発明者山内啓二1866慶応2年宮城県生れ。山内玄人編『伝記山内不二門』
*大気堂:『東京模範商工品録』1907明治40年に大気堂の輪転謄写機の写真あり。
1918大正7年8月、玉圃80歳.。大槻文彦宛「富士登山記」あり(早稲田大学図書館蔵)。
松浦玉圃の没年不詳。
<参考>
荒井泰治: 当ブログ2014.2.22 「明治、東北の実業人と台湾(荒井泰治・藤崎三郎助・槙哲)」
大槻文彦: 国語学者。蘭学者大槻玄沢の孫。『言海』刊行。
大槻盤渓: 維新期の洋学者・砲術家。大槻玄沢の次男。著書『近古史談』
岡鹿門(千仞): 当ブログ2011.5.21 「幕末の大阪で塾を開いた漢学者、岡鹿門(仙台藩)」
佐和正: 当ブログ2012.7.22 「明治の少警視そして青森県知事・佐和正(仙台)」
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