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2014年5月 3日 (土)

武侠社: 押川春浪(愛媛県)・柳沼澤介(福島県)

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 プロ野球のテレビ観戦を楽しんでいる。東京ドームに応援に行くこともある。やはりナマは迫力があり、ホームランはもちろん野手の送球もカッコイイ。ただ勝負事だから負ける時もある。それも長時間かかって負けると損した気分、時間を返してもらいたいと思う。それにしても近ごろの野球人気、陰っているらしく、スカパーでないと始めから終わりまで観られない。
 ところで、野球が日本に入ってきた明治はなかなかの人気だった。2013.12.7記事「ベーブルースと会った河野安通志」にも書いたように、「野球は害毒」説がでるほど人気があった。それに反論し野球擁護にまわった明治の野球好きが河野安通志、そして早稲田野球部長・阿部磯雄、小説家・押川春浪らだった。


    押川 春浪
 

 1876明治9年3月21日、愛媛県松山市小唐人町で生まれる。本名・方存。
   父は明治期のキリスト教教育家。横浜のブラウン塾出身、東北学院を創立した押川方義である。
 1880明治13年、新潟に伝道に赴く両親と共に新潟に行き、翌年だらに仙台に移る
 1883明治16年、仙台の宮城師範附属小学校に入学、その後上京して明治学院に入学。
   しかし、野球に熱中しすぎて勉強を怠り、父に東北学院に転学させされた。が、粗暴なため放校された。
 次に札幌農学校実習科に入学、さらに上京して、水産講習所に入学したが、ここでも乱暴なためまたも追放された。原因は野犬を殺して、教室のストーブで焼いて食べているところに外人教師が来て、その行為を咎められたためという。
 1895明治28年、父方義が、大隈重信と親しかったので、早大の前身、東京専門学校英文科に入学。
 1898明治31年、卒業。さらに、政治科に入学したが、やはり乱暴であった。

 1900明治33年、この在学中に処女作「海底軍艦」を書き、単行本として出版し一躍名を知られる。
 1901明治34年、卒業。
   春浪の冒険小説は日清戦争時の国運伸張の気運に乗じ、世に大いに迎えられた。この反響に春浪は次々の作品を発表、巌谷小波の推薦で博文館に入社、雑誌『冒険世界』の主筆となった。しかし、翌年二児を亡くし元気がなくなった。そのころ、学生野球人気の過熱に対し「東京朝日新聞」野球撲滅論キャンペーンがはられた。これに春浪らは真っ向から反論、『冒険世界』でも大々的に反論しようとして注意され、博文社に迷惑がかからぬようにと退社した。

 1909明治42年ごろ、野球好きの押川春浪を中心にはじまったチーム、天狗倶楽部のメンバー中に小杉方庵柳沼澤介がいた。天狗倶楽部の活動は、試合や宴会までも新聞記事になり、読者の注目を集めた。

 1912大正元年、押川春浪は友人、柳沼澤介・小杉方庵(未醒)らと、ナショナリズムとつながる少年文学雑誌『武侠世界』を創刊し活躍した。
 1913大正2年、健康すぐれず自由を求め、保養をかねて小笠原島にわたったが、島の首長と争ったりして一月あまりで帰京。
 1914大正3年、風邪から肺炎になり38歳の若さで、波瀾の多い生涯を閉じた。

    柳沼 澤介 

  1888明治21年5月21日、福島県二本松でうまれる。
 1904明治37年、16歳で出版社の興文社に入り、先代・長治郎に才能と手腕とを認められた。 
 24歳の時、興文社を辞めて、押川春浪と武侠社を創立、『武侠世界』を発刊。
 当時は日本の進展期にあたり、東洋にも諸外国の植民政策が伸びてきていた。それに対抗して日本民族の生きよう伸びようとするロマンチックな夢は、春浪の冒険小説を読む青年たちの共感をそそったのである。この雑誌は一時期、高評を博したが、春浪没後、廃刊になった。
 武侠社は、昭和初期の円本時代を迎えて、雑誌『犯罪科学』や円本の『近代犯罪科学全集』 『性科学全集』を刊行。しかし、円本時代の終焉とともに武侠社は消滅したようだ。

 1905明治38年、近時画報社『婦人画報』を創刊した。国木田独歩が編集長をつとめ、翌39年、独歩社に改称。独歩の死後、東京社が継承したが経営状態はよくなかった。
 1931昭和6年、柳沼澤介は小杉放庵との関係もあり東京社の経営再建を引き受け、立て直し社長になった。この東京社は、現ハースト婦人画報社の前身であり、柳沼は1955昭和30年代まで経営していた。
 かつての勤務先、興文社にも相談役として関わり、興文社の「小学生全集」とアルス出版の「児童文庫」が販売でしのぎを削っている時、柳沼は采配をふるった。
 
 柳沼自身の著作、『飛行機の作り方』大正元年出版していたとあるが、この本を確かめられなかった。
 また 『日本出版大観』に次のようなエピソードがあるが、これも資料が見当たらない。
 第一次世界大戦中、ドイツ潜艦の出没が激しくなり、輸出入が途絶えると、大日本人造肥料会社の重役・平田初熊と共同で南洋方面に船を出し、一年半ほど冒険的事業に身を投じた。
 明治から昭和初期にかけての編集者だが人名辞典に掲載がなく、残念ながら詳しい履歴、死去の年代も分からない。

  武侠社の出版物は古書で出回っているのもあるよう。次に、国会図書館デジタルコレクションで読める武侠社の刊行物をあげておく。
 『犯罪科学全集』 『清水次郎長』 『日本共産党検挙秘史』 『忍術己来也』 『唐手・琉球拳法』 『性科学全集』

 参考: 『日本出版大観』1931出版タイムス社。 『現代日本文学大事典』1965.明治書院。

 

 

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