小説家・翻訳家、壮志忘れず二葉亭四迷
先日「今でしょ」の林修氏が、テレビで二葉亭四迷の「言文一致」について説明していた。見ながら染井霊園の落ち葉が吹溜まった二葉亭の何とも寂しげな墓石を見た日を思い出した。訪ねる人もなさそうだったのは二葉亭の文学が難しいのか、明治がよほど遠いのか。知識がないし判らない。この際、ちょっと見てみようか。でも、夏目漱石や森鷗外が口語訳で読まれる現代、およそ130年前の『浮雲』を読むのは難しそう。
1887明治20年出版『浮雲』は、言文一致体といっても筆者には古文と同じ、注釈が必要。そこで『坪内逍遙/二葉亭四迷集』(新日本古典文学大系・明治編2002岩波書店)を借りた。この本なら詳しい注と挿絵に助けられ読めそう。そればかりか豊富な注(十川信介・校注)は、明治の世相を垣間見る手立てになり、歴史的の興味も満たされる。
また、「小説のような二葉亭四迷/長谷川辰之助の生涯の輪郭」を、年譜(『政治小説/坪内逍遙/二葉亭四迷集』(現代日本文学大系1978筑摩書房)で記す。
1864元治元年 江戸市ヶ谷合羽坂尾張藩上屋敷で生まれる。本名・長谷川辰之助。父は尾張藩士・長谷川吉数。
上野戦争(戊辰戦争)後、諸藩引き払いとなり祖母らと名古屋に赴く。父は江戸に残り藩邸を守る。
1869明治2年 野村秋足の塾で漢学、叔父に素読を学ぶ。このころ髷を結い帯刀。
1875明治8年 父の任地・島根県松江へ。内村鱸香に漢学、松江変則中学校に通う。
1878明治11年 15歳で上京。軍人志願で陸軍士官学校を受験、3年続けて不合格。
1881明治14年 18歳。東京外国語学校露語科入学。寄宿舎に入る。
20年来の友人・内田魯庵(評論家・小説家)は当時の二葉亭について
<東亜の形勢を観望して遠大の志を立て、他日の極東の風雲を予期して舞台の役者の一人となろうとしてゐた・・・・・・それ故に軍人志望が空しくなると同時に外交官を志して露語科に入学した。二葉亭のロシア語は日露の衝突を予想しての国家存亡の場合に活躍する為の準備として修め・・・・・・死ぬまで国際問題を口にしたのは決して偶然ではない、青年時代からの血を湧かした希望であったのだ>(『おもひ出す人々』二葉亭四迷の一生)
1885明治18年 父が非職(官吏の地位をそのまま職のみ免ず)となり両親と住む。
<20代>
1886明治19年 商業学校(のち一橋大。東京外国語学校が廃止され東京商業学校に合併)を退学。英人イーストレーキに英語を学ぶ。ツルゲーネフ「父と子」を部分訳。
1887明治20年 24歳。『浮雲』第一編刊行、二葉手四迷と号した。翌年第二編。
1889明治22年 内閣官報局雇員(高橋健三局長)。初め英語のちロシア語の新聞雑誌の翻訳をした。
文学では生活できず苦境の二葉亭に翻訳官として官報局に斡旋してくれたのが、外国語学校の恩師・古河常一郎であった。夏から出仕、以後の数年は生活が保障され漸く安心して、文壇から縁を絶って読書に没頭することが出来た。
1891明治24年 神田錦町の下宿を横山源之助(社会問題研究家)が訪ねてきた。彼は二葉亭、松原岩五郎らの影響をうけて社会問題に関心を持った。
以下“―――部分”は、横山源之助著『凡人非凡人』(1911新潮社)より
――長谷川君に会ってみると何もない4畳半の部屋できちんと座り・・・・・・どうかすると腕捲りをする癖があったようだが、どこ迄も穏やかで、丁寧で、その中に近づくべからざる威厳も備わっていた。僕はこの人が小説を書いた人かと、聊か案外にうたれた。
<30代>
1893明治26年 30歳。1月福井つねとの婚姻届、2月長男生まれる。
―――いつも長谷川君の家で落ち合ったのは、内田不知庵(魯庵)君であった。当時内田君はドストエフスキーの『罪と罰』を訳して、名声さくさくたる時で、長谷川君と口角泡を飛ばして、何か論じていたのを僕は傍で煙草を吹かしながら聞いていた。
・・・・・・その中に(明治27年)日清戦役の黒幕が落ちた。この時はもう理想に耽る長谷川君ではなかった。国際問題も出れば、生活難も出る、家庭の煩悶もでてきた。
1896明治29年 つねと離婚。翻訳集『かた恋』(片恋、奇遇、あひびき)出版。二葉亭の訳文はいずれも推敲に推敲が重ねられており、美しい日本文体に昇華されている(『現代日本文学大事典』1965稲垣達郎)
1897明治30年 ゴーゴリ「肖像画」、ツルゲーネフ「うき草」訳載。内閣官報局は自由の空気があり書生放談の下宿屋の雰囲気だったが、局長が替わり自由な空気は一掃され、恩師古河も辞め、二葉亭も辞職。
1898明治31年 陸軍大学校露語科教授嘱託となったが辞め、海軍編修書記となる。
1899明治32年 海軍編修書記を辞任、東京外国語学校教授に就任。
1902明治35年 髙野りうと結婚。東京外国語学校を辞任。貿易商・徳永茂太郎のハルピン支店顧問としてハルピンに赴く。
「ハルピンの私の写真館に、飄然と現れた奇人の中にロシア文学者二葉亭四迷(長谷川辰之助)氏がある。何の目的でハルピンに来たのかと訊ねても、いつも笑って答えなかった。徳永商店に滞在してブラブラと日を暮し、気が向けば私の写真館に遊びに来たまま一週間も泊り込み、写真館のお客を相手に自由なロシア語を操っていた。筆名の由来を訊ねると、親父が三文文士が大嫌いでね、貴様のような奴はくたばってしまえと」(石光真清著『曠野の花』1972龍星閣)
二葉亭は各地を視察して北京への途中、ウラジオストックでのエスペランティストの会合に参加。10月、外国語学校の同窓の川島浪速・清国宮師警務学堂監督と会い、同学堂提調代理に就任。北京北城文司庁胡同警務学堂公館に住んだ。
<40代>
1903明治36年 40歳。警務学堂提調を辞任して帰朝。
1904明治37年 日露戦争開始。大阪朝日新聞東京出張員となる。トルストイ『つつを枕』出版。
―――長谷川君が「語学というのは恐ろしいもんだ。露西亜(ロシア)の事情は、皆目判らない癖に、露西亜の事となると、之はおれの任務だというふ気がしてならない」といったのを覚えているが、おそらく君の心事を尽くしたものであろう・・・・・・その翻訳でも、対露問題でも、はたまたその生活でも、皆君の性格を領していた真面目を以て蔽はれていた。僕は真人長谷川辰之助君に最も服したのであった(明治42年横山源之助)。
1905明治38年 二葉亭の原稿は細密であったが新聞向きではなく冷遇され、大阪朝日を退社しようとしたが、池辺三山(明治の三代記者の一人とも)の尽力でそのままとなった。
1906明治39年 小説『其面影』を東京朝日に連載。亡命ポーランド革命家ビルスーツキーを知り援助、また亡命ロシア革命家らも援助した。
1908明治41年 ロシアの新聞記者ダンチェンコが来遊、二葉亭は朝日を代表して方々案内した。ダンチェンコは朝日社長の村山や池辺に、二葉亭を特派記者として推奨し受け入れられた。二葉亭は6月、神戸から海路大連を経て、シベリア経由でペテルブルグへ赴く。
1909明治42年 46歳。二葉亭は感冒から肺尖カタル、肺結核に冒され友人の説得により帰国を決意。4月入院先を出発、ベルリン、ロンドン、マルセイユ、スエズ、コロンボを経て日本へ帰航途上の5月10日、ベンガル湾上で死去、シンガポールの山腹で荼毘に附された。
二葉亭終生の友人、内田魯庵は『二葉亭四迷の一生』を次のように結ぶ。
一代の詩人の不幸なる最後にふさわしい極めて悲壮沈痛なる劇的光景であった。空しく壮図を抱いて中途にして幽冥に入る千秋の遺恨は死の瞬間まで悶えて死にきれなかったろうが、生中に小さい文壇の名を謳われて枯木の如く畳に朽ち果てるよりは、遠くヒマラヤの雪巓を観望する丘の上に燃ゆるが如き壮志を包んだ遺骸を赤道直下の熱風に吹かれつつ荼毘に委(い)したは誠に一代のヒーローに似合わしい終焉であった・・・・・・葬儀は染井墓地の信照庵に営まれた・・・・・・門生が誠意を込めて捧げた百日紅樹下に淋しく立てる墓標は池辺三山の奔放淋漓たる筆蹟にて墨黒々と麗しく二葉亭四迷之墓と勒せられた(中略)
渠(かれ)は小説家ではなかったかも知れないが、渠れ自身の一生は実に小説であった。
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