続・日本種痘はじめ大野松斎 & 桑田立斎
「大野松斎は長崎に行ったか」
―――松斎がまだ長崎で勉強をしてゐた時、どこで松斎の人格を知ったのか、ある日高島秋帆が松斎を呼んで、「今度オランダから牛痘の種痘が伝わりました。ついてはこの痘病を切らさず永く日本に残して人命を救いたいのです」(『日本種痘はじめ』鈴木三郎著p170)
これで、シーボルトと関わりのある長崎町年寄・高島秋帆が松斎に
「長崎から江戸へ種痘の種、痘痂(かさぶた)を運ぶことを依頼した」のを知り<日本種痘はじめ、お芋の松斎先生>に記した。実は、引用しつつも松斎はいつ長崎に? 師は誰?と気になったが、他の資料が見つからなかった。その「気がかりに」コメントが寄せられた。右下コメント一覧、*温故堂氏をクリックしてください。精しい情報が得られます。
―――(温故堂氏コメント)松斎が長崎に留学したことは『近代名医一夕話』と『東京日日新聞』明治21年7月19日の記事に書かれていますが、ほかの史料で裏付ける確証がありません。いつごろ留学したかお分かりなら教えてください。
お答え: 分かりません。読んでもらえたばかりかコメントまでいただき感謝しつつ資料を探しましたが見つかりませんでした。以下参考まで。
シーボルト関連の著作や研究書、『シーボルト先生――その生涯及び功業』(呉秀三著・東洋文庫)、『江戸参府紀行』(シーボルト著・東洋文庫)、『シーボルト日記』(八坂書房)などで日本人をチェックするも、それらしい人物は見つけられなかった。『種痘伝来』(アン・ジャネッタ著・岩波書店)にも長崎関連で松斎の名はない。また、松斎の師・坪井信道は長崎で医術を学んでいないようで、この方面からの長崎行きはなさそう。
ただし、長崎町年寄・高島秋帆は種痘の大切さをよく理解、普及にも熱心だった。そうした彼自身で、または蘭方医に頼まれて痘苗を輸入している。そんな事から手に入れた痘苗を江戸へ送る事を頼むことはありそうだが、資料がなく不明。
高島秋帆と大野松斎の出会いを描いた『日本種痘はじめ』は帝国教育会の出版、会は大日本教育会と国家教育社が合併して設立され、会長は近衛篤麿である。松斎は皇族方に種痘しているからその方面に経歴書がありそう。それに長崎で学んだと記されていたのだろうか?これも資料を見ていないから分からない。
ところで、「松斎が長崎で種痘法を学ぶ」というのがネットにあった。
<谷中・桜木・上野公園路地ツアー/大野松斎
http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/oonoSyousai.htm
―――はじめ久保田藩の藩医斎藤養達に医学を学ぶ。のち京都で新宮涼庭に、江戸で坪井誠軒に師事。のち、長崎でモンニッキに種痘法を学ぶ。・・・・・・ 養子に大野恒徳がいる。門人に秋田種痘医北島陳直・児玉弘愛がいる。
モンニッキはおそらく出島のオランダ人医師、オットー・モーニッケ(モーニケとも)と思われる。記事の出典を知りたい。
ちなみに、モーニッケは長崎通らの日本人3人の子どもたちに牛痘種痘を施している。モーニッケは種痘を日本にもたらすために、30年もの間苦労をして、やっと3人の中の一人に成功した。日本に種痘を広めるのに功績のあった人物である(『種痘伝来』)。
「松斎は北海道に渡ったか」
―――桑田立斎と大野松斎は同門で、立斎が病で亡くなった後、松斎がよく志を継いで種痘に奔走した(1876明治9年『牛痘弁論』林義衛 述[他] (英蘭堂・島村利助蔵版)。
桑田立斎(くわたりゅうさい)
1811文化8~1868明治1。新潟越後の生れ。
幕末の医師、桑田立斎は江戸深川で小児科を開業。モーニッケによって牛種痘が伝えられ、痘苗が江戸の佐賀藩主鍋島邸に到着すると、同邸および自邸で幼児らに接種。さらに書物を著し、錦絵風の引札をたくさん作ってその効果を宣伝した。
写真: 桑田立斎『三済私話』1854嘉永7年刊挿絵(早稲田大学図書館・古書資料)
―――立斎は長崎遊学の機会はなく、おそらくオランダ語に堪能ではなかったであろうが・・・・・・彼自身天然痘にかかった子どもの治療経験を持っていたゆえに、ジェンナーの牛痘種痘の普及への貢献は際だつ(『種痘伝来』)。
その立斎は1857安政4年、蝦夷地で痘瘡が流行した際、幕命をおびて門弟と苗児を伴い、幼児に種痘するリレー式で目的地に赴き、7千人に接種した。このとき、大野松斎も立斎と北海道に渡ったという石黒忠悳(いしぐろただのり)だが、資料は得られなかった。
しかし、石黒忠悳のち軍医総監は、大野松斎が社長をつとめた種痘所、積善社議員6名の筆頭に名がある(『種痘弁疑・続』)。そのことからして、松斎が北海道へ渡った話はそうかも知れないと思えるが、どうだろう。
また、北海道へ種痘に赴いたとき立斎は46歳、松斎も行ったとすれば立斎より8歳下の38歳、門弟と思われ特に名を記されなかったのかも。
なお、桑田立斎は明治維新後、種痘所が出来た年に死去、積善社人名表(56名)に名は無いが、その功績は伝えられている。
余談。
前出、『種痘弁疑・続』(1881島村利助)著者・阪本蕙墅は、原稿を携えて中村敬宇に序を乞いに行った帰り、飯田橋あたりで袂に入れた原稿を紛失してしまった。散々探し探し回った翌々日、無事に届けられた。市ヶ谷在住の若松県士族青山藤五郎という人物が、「種痘の書にして天下有用の術なれば」と届けてくれたのである。
ちなみに、大野松斎の墓銘は中村正直(敬宇)撰。松斎の隣にある養子・大野恒徳の墓の撰文は石黒忠悳である。恒徳もまた種痘医として活躍し、日清戦争に軍医として従軍した。1899明治32年没。
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コメント
けやき様:追伸『医事新聞第百九十四号』に「牛痘種法由来 其六 坪井信良
○大野松斎自記小伝」と題する松斎自身の唯一の記述と思われる小文が載っています。この中で「嘉永二年牛痘苗始メテ本邦ニ舶来ノ時伊東玄朴師ニ苗ヲ請ヒ播種セシヨリ本年明治十八年マテ三十七年間ヲ経過シテ・・・・」とあります。ですからモーニッケとの出会いはなかったと考えるほうが正しいと思います。長崎への留学の件は昭和になって関係者の記憶をもとに書かれた『近代名医一夕話』か『東京日日新聞』明治21年7月19日の松斎の死亡記事に載っていた小伝が長崎でモーニッケに学んだとの伝説のもとと思われます。
投稿: 温故堂 | 2014年5月10日 (土) 15時07分
けやき様 さっそく色々調べていただきありがとう御座いました。松斎の長崎留学の件は期間的に難しかったと思いますし、確実に裏付ける史料も見つかりません。 また
桑田立斎と一緒に蝦夷に派遣され種痘を施した事実も裏付けがありません。安政雑記には「安政四丁巳年五月廿一日 函館奉行竹内下野守ゟ白川阿部侯江御達 御鑓奉行 筒井紀前守医師 桑田立斎 右者蝦夷人種痘之為彼地江差遣候ニ付当地ゟ白川迄種痘ニ小児召連同所ニおゐて外小児江次・・・・・・」とあり松斎の記述はない。
他の史料から深瀬洋春が蝦夷で一緒になり、東側は立斎が回り西側は洋春が回って種痘を施したとされる。このことを石黒忠悳が記憶違いをしたのでしょう。
積善社に桑田立斎の関係者(親戚か?未調査)桑田巳一郎が明治21年には参加している。
投稿: 温故堂 | 2014年5月10日 (土) 14時08分