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2014年5月24日 (土)

ペリー、プチャーチン応接係、維新後は神道:平山省斎(福島県)

 幕末の外交史年表をみると、各国使節・提督=米ペリー、露プチャーチン、英スターリング、総領事=米ハリス、英オールコック、仏ド・ベルクールのちロッシュの外国人名が並ぶ。開国したものの体制が弱りつつあった幕府に、その応接は困難だったが、アメリカのハリスと交渉して通商条約の締結に努めた岩瀬忠震(いわせただなり)、またロシアのプチャーチンと応接に努め日露和親条約に調印した川路聖謨(かわじとしあきら)らはよく力を尽くした。
 ところで外交交渉とは別に、攘夷派の武士らによるやっかいな殺害事件が一度ならずあった。1856安政2年、米国公使館書記・通訳官ヒュースケン暗殺はよく知られる。また、坂本龍馬の「船中八策」なった翌月に「イギリス水兵殺傷事件」がおきた。

 1867慶応3年7月6日夜、長崎の寄合町で泥酔し寝込んでいた英国軍艦イカラス号水兵2名が殺された。公使パークスは激高、幕府に犯人の逮捕処刑を強要すると共に、

 ―――殺害したのは近くにいた土佐藩・胡蝶丸乗組員であるとし幕府を介せず、直接英国軍艦を土佐に派遣して詰問しようとした。幕府は外国奉行・平山図書頭(ずしょのかみ省斎)をイギリス艦に乗せて土佐に送り問題を処理しようとした。省斎は高知に赴くや藩主(山内豊範)に面会して相談。犯人を捕らえて差し出すという答えを得、すぐ長崎に赴き、土佐藩の艦長に藩主の命を伝えた。

―――幕府も責任上、いろいろ探索したが、犯人を得ることができなかった・・・・・・後に、この犯行は筑前藩士と判明し、明治元年関係者が処罰されたが、下手人の金子才吉はすでに自殺していた(『幕末外交談2』田辺太一著1966東洋文庫)。

        平山省斎 
               1815文化12年~1890明治23年

 陸奧国三春藩士で剣道師範・黒沼活円斎の次男。母は塩田氏。名は謙二郎のち敬忠。
 1834天保5年、20歳で江戸に遊学。以来10数年、叔父・竹村久成の家事を助け、漢学を桑原北林安積艮斎に学び、国学を前田夏蔭に学ぶ。学力をつけてからは家に居て教え、求めがあれば講義した。
 1848嘉永1年、桑原北林の次女、千代と結婚。
 1850嘉永3年、36歳。幕府小普請・平山源太郎の養子となる。

 1852嘉永5年、内命あり下田に微行。ロシア船の日本漂流民送り戻しの事実を探った。
 1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率い浦賀に来航。
 1854安政1年、40歳。幕府徒目付。3月、日米和親条約締結、省斎も応接係の一員であった。4月、目付・堀利忠らに随行、蝦夷を巡視し樺太、東北沿海を巡る。ロシア海軍提督プチャーチン再来、水野忠徳に従い応接し12月、日露和親条約締結。
 1855安政2年、ペリー下田に再来、省斎は岩瀬忠震に随行し応接。
 1857安政4年、勘定奉行・水野忠徳に随行、長崎でロシア・オランダ公使と貿易交渉。
 1858安政5年、書物奉行に昇進。岩瀬忠震の命を受けて越前・橋本左内と往来。

 1859安政6年、45歳。一橋派とみなされ大老・井伊直弼により処罰、御役御免となり甲府勝手小普請入り。甲府勤番は幕府直轄領支配として設置されたが、のち多く左遷された非役の御家人がなった。
 ちなみに、省斎は岩瀬の知遇を得て、意見書など省斎の筆になるものもあるという。他に、永井尚志、水野忠徳、堀利煕、山口直亮、大久保忠寛、板倉勝静らと交際があった( 『省斎年譜草案』1908平山成信編)。
 1860万延元年4月、甲府に出発。甲府にいる間も子弟を教えた。
 省斎の人となりは沈毅堅忍、倹素、人の危急を救うのに力を惜しまなかった。教え方も理解しやすいように丁寧に繰り返して説くといったふうで、教えを請う者が跡を絶たなかった。

 1862文久2年、江戸小普請入り江戸に帰る。箱館奉行支配組頭になり翌年函館へ。
 1865慶應1年、51歳。二ノ丸留守居外国御用となり江戸へ帰る。第二次長州征伐
 1866慶應2年、省斎は小笠原長行に従い小倉に赴く。この間、鍋島閑叟の求めで佐賀に赴き面会。7月、将軍家茂が戦い半ばで病没、幕府軍は引き揚げることに。小倉陣営の小笠原は夜陰に乗じて船で長崎へ向かった。省斎はこれを知らず昼夜兼行で急ぎ長崎へ向かう。着いてみると、小笠原らは既に江戸に帰った後だった。省斎はのちに
「余、世故を閲し難局に当たること多し、然れども苦心焦慮このときに過ぎたるはなし」(『明治百傑伝』千河岸貫一編1902青木嵩山堂)と語る。
 外国奉行に抜擢された省斎は8月、長崎から江戸へ出発。名も図書頭と改めた。

 1866慶應2年、朝鮮で布教をしていたフランスの宣教師と信徒が惨殺された。
 フランス東洋艦隊ローズ提督は艦隊をひきいて朝鮮に赴き攻撃を開始。朝鮮はこれに応戦、また厳寒の季節のためフランス側はいったん兵を引き揚げた。このフランス朝鮮戦争について朝鮮から幕府へ知らせがあり、フランス公使からも通知がきたので、幕府は仲裁をしつつ、もともと交際のある隣国朝鮮に西洋各国との交わりをすすめ、更に東洋に覇をとなえる下地にしようとした。
 1867慶応3年、幕府は平山図書頭、古賀謹一郎の使節派遣を決めた。省斎は若年寄兼外国総奉行に抜擢され、朝鮮との交渉を命ぜられた。ところがその時初めに記した、「イギリス兵殺傷事件」がおこり、平山は朝鮮に向かう前に、前述のように高知と長崎で事に当たらなければならなかった。

 さて、役目を果たした省斎は、対馬から朝鮮へ渡航するため11月品川を出帆、大阪に着き京に至った所で政変、徳川慶喜の大政奉還を知った。幕府役人平山省斎は御役御免、朝鮮への使節派遣は中止になった。

 1868明治元年、平山は官位剥奪の処分を受けて閉居していたが、まもなく徳川慶喜に従い静岡に移住。静岡では八幡村・西光院で子弟を教えた。
 1870明治3年正月、許されて東京にもどり、城北白山/北豊島郡に住み、素山道人と号した( 『偉人事績』1908福島県編)。
 1873明治6年、59歳。氷川神社大宮司、権中教正に補せられる。
 1876明治9年、氷川神社大宮司、日枝神社祠官を兼任。正七位に叙される。
 1879明治12年、大教正。大成教会を結成し、その教長と称す。これより国教を振張するため敬神愛国の道を説く。
 1884明治17年、70歳。神道総裁より大成教管長を申しつけられる。
 1889明治22年、佐久間象山贈位祝祭の斎主となる。その帰途、病にかかる。
 1890明治23年5月、前年の病が再発し76歳で没。上野公園谷中墓地に眠る。

   

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