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2014年5月31日 (土)

外来の体操とスポーツ・卓球を明治日本に、坪井玄道

2014
 近ごろ、卓球にはまって机に向かう時間が減り、ブログの週一回更新がきつい。ブログは生き甲斐、時間配分どうしよう? 卓球の技量は「やろうとする事は判る、でも腕がついて来ないなあ」とコーチに笑われる程度、なのにどっちもやめられない。考え中、ふと、スポーツ草創期の明治卓球界は? 「界」というほど普及してなくて「会・倶楽部」程度だったかなど、気になり調べてみた。 
 ちなみに、野球の紹介は卓球よりずっと早く、1873明治6年、開成学校の米人教師・ウィルソンがはじめて紹介。明治半ばごろ、人気が過熱、「野球害毒キャンペーン」が展開されたほどだ(2013.12.7記事「ベーブルースと会った河野安通志」)。


  1902明治35年6月、英国より帰国の東京高等師範学校教授 坪井玄道、卓球を紹介
この年。日英同盟協約調印/ 耐寒雪中行軍の弘前歩兵第5連隊、八甲田山麓で猛吹雪のため遭難/ アメリカ炭鉱労働争議、ルーズベルト大統領紛争介入など。

     坪井玄道 
                 1852嘉永5年~1922大正11年
    明治・大正期の教育家。外来の体操とスポーツを日本に植え付けた功労者。 

Photo 千葉県(下総国東葛飾郡鬼越村)の農家に生まれ、医学を志し、1867慶應3年、15歳で江戸に出て英語を学ぶ。
 1871明治4年1月、大学得業生(卒業生。明治初年に置かれた兵学寮・大学校の教官及び工部省の技術官)。8月文部省出仕。
 1872明治5年。師範学校係となり、アメリカ人教師スコットの教授法を通訳する。
 1875明治8年、宮城英語学校教諭。1877明治10年、仙台中学校教員。

 1878明治11年、体育指導者養成のため政府が東京神田に設置した体操伝習所(初代主幹・伊沢修二)アメリカ人教師リーランドGeorge E.Lelandの通訳兼助手となる。
 1882明治15年、リーランドの著述を翻訳、日本最初の体操教科書 『新撰体操書』 刊行。
 1885明治16年、文部相御用掛となり体操伝習所勤務。東大教師ストレンジの著書翻訳 『戸外遊技法』 出版、体操や様々なスポーツの普及に努めた。本文中に〔フート、ボール(蹴鞠の一種)〕という項目があり、後にサッカー普及の祖として顕彰される。
 1886明治19年、伝習所は東京高等師範学校に継承されその教授となる。
 1887明治20年、高等師範学校教諭。明治21年、東京高等女学校教諭、明治23年、東京女子高等師範学校教授を兼任。

 1900明治33年、体操研究のためフランス・ドイツ・イギリス三国へ留学。
 1902明治35年、欧州から帰国のときアメリカを巡り、アメリカから卓球の用具をはじめて輸入、流行の端緒をつくった。
 1903明治36年、体操主任教授。東京市本郷区弥生町三番地在住
 1904明治37年、文部省体操および遊技取調委員を委嘱される。
 1907明治40年、普通体操及び兵式体操の調査委員。
 1922大正11年死去。70歳。

 
           ○○○○○ ピンポン卓球 事始め ○○○○○

      <ピンポン倶楽部>
 ――― 少年諸君の中にはまだご存じないかたも多かろう。それは英国から渡った新しい遊戯機械で、何の事はない、座敷テニスだ・・・・・・余も二、三度やって見たが、元よりテニスほどの趣味は無く、またそれほど運動にもならぬが、女子供の遊びには、又至極適当なものだ
   (『小波洋行土産』巌谷小波著・明治36博文館)。   


      <卓球初期の思出話>
                  東京帝国大学教授・小石川植物園長 中井猛之進

 ――― 体操の先生、故坪井玄道氏がピンポンPing Pong 一名Table Tennis を輸入されて美津濃で10組を試作させた。然し先生が東京帝国大学校内を持回って買手を求められたが全部は売れなかった
・・・・・・黄色を帯びたセルロイドのボール、ネットは弱いので桃色の布で縁が取ってあった。ラケットの柄は長く太く相当に重かったが、1909明治42年兵隊に行くため本郷追分の屑屋の手に渡ってしまい、惜しい記念物を失ったと悔やんでいる
・・・・・・1914大正3、4年の頃は子爵戸田康保氏、新谷壽三(北樺太石油会社技師)らと共に宗教大学の各選手と往復していた。当時、美校生が写生に来るので幾度も試合した。その頃、農大・東歯・宗教の3校が東都の三傑で巴戦をしていた・・・・・・ラケットは人々勝手なものを使い、計量本位の編目の穴あきもの、筋をつけてカットに便ぜるもの、柄の馬鹿に長いもの、板に象嵌したもの、象牙の柄を附けたもの、板の部が一尺もある大型のものを使用し打つ毎にボールを煽いでいた人もあった・・・・・・
   (『東京歯科医学専門学校学生会卓球部創立二十年史』1934)。

    <多治見人とピンポン>
 ―――  瞬間の駆け引き、咄嗟に敵の虚を看破して、熱球深く敵手の胸をつく底の快味は、此の競技の特徴でしかもテニスよりは、もっと簡単な競技が、この忙しい町に勃興するのは当然の事で、立派な正式の卓が各商店に据えられ、全多治見の商店の娯楽機関の中心になろうとして居る
   (『茶碗屋茶話』芳野町人著・大正14山名書房)。

        <ピンポン>
  ―――目下当地に於ける流行の一つはピン、ポン(PingーPong )と申す遊技に御座候・・・・・薄き革にて張りたる、団扇型の、おもちゃの太鼓の如きラケットにて、杏の実ほどなるガムのボールを打ち競ふこと・・・・・・ピン、ポンとは其の球を打つ音に象取りし名なる・・・・・・晩餐のあと食卓をかたずけてより、いざ一勝負と、若き男女等・・・・・・きわもの類の小説詩歌集中にも、「物思はしげなる美人が、ピンポンの音する家より二軒目の窓の前に、そと立寄りて」・・・・・・など物したるを見申候
     (『明治大正随筆選集14』島村抱月著・大正14人文会出版部)。

  参考: 『最新学校体操之理論及体操遊技教授細目』明治43平本健康堂 / 『第五回内国勧業博覧会審査官列伝.前編』明治36金港堂編(肖像写真)  / 『世界大百科事典』1972平凡社  / 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂

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