明治の小説家・翻訳家、若松賤子(福島県)
「小公子」(明治24.11.5)の広告が出ているが、若松賤子の名を出さないで、「巌本善治妻訳」としてあるのが、異様に感ぜられる。
(『明治東京逸聞史』森銑三著・東洋文庫)
* 巌本善治(いわもとよしはる): 明治・大正期のキリスト教女史教育者。中村正直(敬宇)・津田仙に学ぶ。『女学新誌』(のち女学雑誌)創刊。女子教育の振興・一夫一婦制・廃娼を主張。その門下から大塚楠緒子、羽仁もと子らがでている。
* 森銑三(もりせんぞう): 大正・昭和期の日本文学者・書誌学者。
左の内容は以下であるが、ペンネームの若松賤子でなく結婚後の姓名で載せ、『小公子』などの作品名を挙げず、「その志は常に家庭改良にあり」と記す。
巌本嘉志子 女文士
旧会津藩重臣島田勝次郎の長女にして雅名若松賤子、元治元年二月岩代若松に生る 後母を喪ひ東京の人大川甚兵衛に養はれて 次て米国ミラー嬢に頼り明治十年横浜フェリス女学校を卒業 助教諭として声明あり遂に英文学の蘊奥を究め兼ねて和文の才に長す 其志常に我邦家庭改良に在り 是を以て文皆清雅穏健実に文壇の一異彩たり 二十年明治女学校長、*女学雑誌社社長巌本善治に嫁し 二九年二月十日肺患を以て没す年三十三染井に葬る(湯谷紫苑)
* 女学雑誌: キリスト教を基盤に女性の教養と女権意識を高めようとしたのが評判をよんだ。巌本は24号から「持主兼編集人」として「女学雑誌」を担い、内容は政治社会、海外情報の多方面におよんだ。途中から文芸色を強め、北村透谷・島崎藤村など多くの俊才がここから巣立った。
若松 賤子(わかまつしずこ)
本名・松川甲子(かし)、父が会津藩主・松平容保の下で公用人物書(隠密)役として仮名を使ったので、幼少時は島田かし子と称した。
1864元治1年、福島県会津若松市阿弥陀町6生まれ。
1870明治3年、生母28歳が病没。賤子は、商用で会津を訪れていた横浜の織物商山城屋(野村)の番頭、大川甚平の養女となり、横浜に伴われアメリカ人から英語とキリスト教の教育をうけた。
8歳でミス・キダー(のちミセス・ミラー)の学校(のちフェリス学院)に入学。ミッションスクールで宣教師の教育を受け、典型的なプロテスタントとしての教養を身につけた。
1882明治15年、フェリス和英女学校高等科第1回卒業生として卒業。成績抜群であったので、ただちに同校の助教となり長く教鞭をとった。英語で寝言をいうほどの語学力であったという。
1886明治19年、母校の教壇に立つ傍ら『女学雑誌』に寄稿、「旧き都のつと」を若松賤の筆名で初めて発表、以後、「木村とう子を弔ふ英詩」「世渡りの歌」(ロングフェロー)等を訳した。
1887明治20年に喀血、以来肺結核は徐々に進行。
1888明治21年夏、賤子は巌本善治がフェリスの試験委員をしていた関係もあって交際がはじまり、恩師ミラー夫人が奨める縁談を断って婚約した。当時のいきさつを相馬黒光が『明治期の三女性』(1940厚生閣)に書いている。
1889明治22年7月、*中島信行・*湘煙夫妻の立ち会いのもとに横浜海岸協会で結婚。湘煙とは彼女がフェリスに漢文教師として赴任して以来、親しく交際していた。
*中島信行: 海援隊を統率。維新後は神奈川県令、自由民権運動にかかわり自由党副総理。
*中島湘煙: なかじましょうえん(岸田俊子)宮中女官から転身した自由民権家。
結婚後、賤子はフェリスを退職、執筆活動に本格的にのりだし、アデレード・アン・ブロクターの英詩に取り組み翻案、自然な口語体による『忘れ形見』を完成させた。『忘れ形見』全文と原詩“THE SAILOR BOY”は「新日本古典文学大系・明治編『女性作家集』岩波書店」で読める。
他にも、創作「お向こふの離れ」、翻訳「イノックアーデン物語」(テニスン)を発表。
1890明治23年、長女清子出産。
「小公子」を女学雑誌に翻訳連載し、森田思軒(ジャーナリスト・文学者)らに傑作として賞賛を受け、文名を不朽のものにした。挿絵入り『小公子』(文末に写真)は、旧仮名遣いとはいえ、やさしい語り口で120年以上も昔の作品とは思えない。明治文学全集『女学雑誌・文学界集』若松賤子篇(筑摩書房)で読むと、原作原文をすっかりのみ込んで、日本語に翻訳しているのが判る。よほど文学の素養、手腕があったよう。
賤子の文学は、樋口一葉「この子」や押川春浪「海底軍艦」、その他後の少年文学に影響を与えた。
1891明治24年、長男荘民出産。 1894明治27年、次女民子出産。家庭生活の中で、翻案小説のみならず、童話、評論など数多くの仕事が生み出されたが、賤子は幼い3人の子どもたちを残して、その生を終えた。
―――女史は死に臨んで慫慂としてとして、敬愛なる夫君に臨終の想ひを語りました。
「私には人に話すようなものは何もない、ただ一生の恩寵を感謝してただけです」
それ故自分の死後にどうか伝記などは書かずにおいてもらひたいと。遺言は守られて、葬式は内輪の人のみで静かに営まれ、城北染井の墓地にとこしへの憩ひの場所を与えられました。墓石にはただ「賤子」と彫りつけたばかりであります(『明治期の三女性』より)。
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