明治・大正、屈指の地方紙(河北新報)を築き上げた一力健治郞(宮城県)
東北新聞創刊: 須田平左衛門 明治10.5.25 獄中ニ自刃38歳 愚鈍院。
東北新聞社長: 松田常吉 明治36.7.1没 61歳 龍泉院。
東華新聞社長: 小野平一郎 宮城県会議長 大正10.3.22没 真福寺。
仙台日々新聞社長: 小原保固 昭和4.1.25没 70歳 満勝寺。
河北新報社長: 一力健治郞 昭和4.11.5没 64歳 従五位 成覚寺。
(『仙台郷土誌』1933 仙台市教育会編)
宮城県士族・須田平左衛門・水科貞吉ら、養賢堂の内聖廟の傍らを借りて活版事業を創始し多少の変革を経て新聞紙を発行・・・・・・東北の眼目、朝野新聞に次ぐの良新紙と(『宮城之栞』1888庄子正光)
1874明治7年、須田平左衛門『東北新聞』創刊。当初、県の仕事を中心に印刷業をはじめたが、次第に「東北新聞」が権力と対抗する姿勢となり、1887明治10年獄中にて自刃、謎の自殺を遂げた。藩閥政府への対抗意識が「東北」を選ばせたよう
([新聞雑誌名「東北」にみる明治期の東北地域感]岩手大学教育学部研究年報57巻2号)
ちなみに、須田平左衛門が何で牢に入れられたのか判らないが、讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞紙条例による言論取締りは地方紙も例外ではなかった。
明治初期、社会は激しく変わりつつあり地方は孤立分散的だったから住民のニュースへの要求が生じてきた。まず、旧幕府時代からの政治経済の中心地に1871明治4年『京都新聞』、『新潟新聞』などが発刊、宮城県は1874明治7年『東北新聞』が創刊された。
『河北新報』(仙台市三番町170番地)は、1897明治30年発刊。創刊者一力健治郞(いちりきけんじろう)は、1942昭和17年まで長きにわたり個人経営で事業を継続、東北宮城・岩手・福島・青森・山形で有力な地方紙に仕上げた。
その人物、経歴は次のようである。
一力健治郞 1863文久3年9月25日~1929昭和4年11 月4 日
仙台の唐物商・鈴木作兵衛の四男として生まれ、隣家の茶商・一力松治郎の養嗣子。
唐物商: 中国または諸外国からの洋品、雑貨などを扱う商売。
1886明治19年4月、東華学校入学。
東華学校。仙台区清水小路。明治19年創立。普通学科は修身・漢学・英語・ドイツ語・地理・歴史・数学・体操など。入学資格12歳以上。校長は新島襄。
1888明治21年、第二高等中学校入学。在学中に、くまじ夫人との間に一男一女をもうける。
第二高等中学校(のち第二高等学校)。1887明治20年4月高等中学校設置区域第2区内(宮城・福島・岩手・青森・山形・秋田)の仙台に設置された。
1890明治23年、退学。上京して国民英学会(東京神田錦町、主幹・磯邊弥一郎)入学。
1891明治24年、仙台に帰り、書籍店文学館を開業。同年、仙台電気株式会社取締役に当選。
1892明治25年、仙台市会議員に当選。
1893明治26年2月、仙台電気株式会社取締役辞職。
12月、宮城貯蓄植林会社取締役兼社長に就任。組織変更にあたり基礎を確立。
1894明治27年、宮城県議会議員に当選。
4月、仙台米穀取引所理事に当選。
1895明治28年、仙台市議会議員に再選。
1897明治30年1月、藤沢幾之輔(改進党・宮城県議会議長)の勧めにより、廃刊寸前の改進党機関紙「東北日報」を譲り受け『河北新報』創刊。
明治維新の際に薩長から「白河以北一山百文」(白河の関、現・福島県白河市)より北は、山一つ百文の価値しかない)と蔑まれた東北の意地を見せるべく「河北」と改題。東北地方の文化振興を旗印にその発展を図り、1908東北ではじめてマリノニ輪転機を導入、写真製整備の設置、活字鋳造の開始等すべて地方新聞のトップを切って最も早く行った(インターネットWikipediaほか)。
1898明治31年、米穀取引所・植林会社・市会議員など辞す。
1906明治39年4月、日露戦役の功により金杯一個下賜される。
1923大正12年、夕刊を発行。続いて岩手・福島・磐城の三地方版を発行。
1925大正14年10月、特別大演習のさい仙台偕行社において文化事業功労者として単独拝謁。
1926大正15年8月、日本新聞協会名誉会員に推薦さる。
1929昭和4年4月5日、死去。67歳。
1930昭和5年、河北新報社は、青森版を新設して北は津軽海峡より南は白河勿来の関に至る東北全土は、河北新報の範囲となった。販売区域は北は北海道より南は栃木・茨城まで拡大、宮城県においては山間僻地の戸外まで分布した。また、子息一力次郎が後を継ぎ、1942昭和17年会社経営になった。
一力健治郞は新聞の発行に当たり、「藩閥政治によって無視されてきた東北の産業・文化の開発に尽くすことだ」と不偏不党を宣言、自ら議員などいっさいの役職を辞して新聞に力を注いだ。経営戦術は独特なもので、99 年6 月から地方紙初の英文欄を設け、文芸、家庭欄を充実、
1900明治33年1 月9 日「社会は活動して1 日も休止することなし」と年中無休刊を宣言、生涯実行した。先見性あるユニークな着想で、人気投票や福引、種々の催しものなどに力を入れて読者を獲得したほか、広告を重視し、とくに中央の広告主を大事にした。
社員に対してはワンマンだったが、人情味に厚く「時間励行訓」を編集局員に配布し“新聞即時間”をモットーに、時計の購入に半額補助したり、出勤の遅い社員には迎えに行ったなど逸話に事欠かない温情の人として慕われた。
死の前年、叙位叙勲の話があったが、河北新報は社会公益の機関で産業文化に何か見るべきものがあったとすればそれは全東北人の覚醒と団結によるもので一個人の努力ではないと、辞退したという。
(日本新聞博物館「日本の新聞人」「続・日本の新聞人」
一力健治郞は死後、生前辞退した従五位に叙せられた。
国立公文書館「故一力健治郞位記追賜ノ件」には、内閣総理大臣浜口雄幸・宮城県知事湯沢三知男・内務大臣安達謙蔵の名があり、昭和初期の雰囲気が漂う。叙されたのは周囲からより時代の要請か。
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2024.9.9 毎日新聞
一力遼本因坊 主要世界戦V(応氏杯)
日本勢19年ぶり
―――囲碁の国際棋戦「第10回応氏杯世界選手権」五番勝負の第3局が8日、中国・上海で打たれ、一力遼本因坊(27)が謝科九段(24)に黒番中押し勝ちし、3連勝のストレートで初優勝を飾った。主要な世界戦で日本勢が優勝したのは、2005年のLG杯の張う九段以来で19年ぶり。・・・・・(中略)・・・・・一力本因坊は仙台出身で、2010年プロ入り。20年に初の七代タイトルの碁聖を獲得。22年に棋聖、23年に本因坊と天元を獲得して初の3冠となる。・・・・・現在も3冠を堅持。河北新報社の一力雅彦社長の長男で、同社取締役も兼務している。[武内亮]。
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2023年7月21日(毎日新聞)
囲碁の第78期本因坊決定戦七番勝負の第7局は・・・・・挑戦者の一力遼棋聖(26)が本因坊文裕(34)=井山裕太九段に218手で白番中押し勝ちし、4勝3敗で本因坊位を初獲得した。棋聖と合わせて2冠となった。
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猛暑でも新聞は欠かせず今朝も拾い読み、すると「一力」という名に「仙台出身」! もしかして河北新報社? やはりそうだった。何かうれしく記事の一部を紹介。
2020.8.19 毎日新聞「ひと」
<碁聖位を獲得した新聞記者の棋士 一力遼さん(23)>
碁聖戦五番勝負に勝ち、7大タイトルを初めて獲得した。・・・・・ 非凡な才能にプロの器と期待したが、地元の指導者から「あの子はプロはダメなんです。家業を継がないといけないから」と聞かされる。東北地方のブロック紙「河北新報社」の創業者の一人息子だった。・・・・・ 新型コロナウィルス感染拡大を受けて囲碁の公式戦が延期された5月には、棋士として自宅でどう過ごしているかを伝える記事を執筆した。「棋士と記者の"二足のわらじ”に不安もありますが、この勢いで他のタイトルにも挑戦していきたい」(文・丸山進)。
2020.12.17 毎日新聞 <一力 天元を初奪取 井山破り、碁聖と2冠に>
険しい戦いを制して王者・井山から念願のタイトルを奪取した一力は「目標としていたことを達成できたのはよかったが、内容的にはまだまだ及ばない部分も多いなと感じたので、来年以降もさらに精進していきたい」と喜びを語った。
2022.3.19 毎日新聞
囲碁の第46期棋聖戦七番勝負・・・・・挑戦者の一力遼九段(24)が井山裕太棋聖(32)に199手で黒番中押し勝ちし、4勝3敗で棋聖位を初獲得した・・・・・。
2023.3. 毎日新聞
第47期棋聖戦七番勝負、静岡県熱海市で打たれ、一力遼棋聖(25)が挑戦者の芝野虎丸名人(23)に・・・・・4勝2敗で勝ち2連覇を果たした。
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