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2014年6月21日 (土)

時は回る(西南戦争・自由党・立憲政友会)鵜飼節郎(岩手県)

 1877明治10年1月、鹿児島私学校生徒、政府移送の弾薬を奪取。注目される西郷隆盛の去就。西南戦争の発端、徴兵を忌避せぬよう人民に説諭する通達がだされた。5月、召募巡査で新撰旅団を編成。6月立志社片岡健吉、国会開設建白するも却下。

西南戦争の巡査隊応募に仙台・会津士族】(明治10.4.18東京日日新聞)

 征西のため新たに巡査(新撰旅団)を募られしは多く奥州辺の旧藩士族にて、中にももっとも多く召募になりしは仙台と会津なり・・・・・・このたびこそ国家のためかつは往時の恥を雪(すす)ぎ、また少しく鬱胸を晴らす処もあれば・・・・・・勇み励んで出立し、昼夜兼行して東京へ来たり、警視局へ着するや否や、一刻も早く戦地へ出張を仰付られたしと

     南部藩士・鵜飼節郎(うかいせつろう) その一

 西南戦争起こるや君、同士を糾合して率いて上京せり。警部補を命ぜられ小隊長心得を兼ね、新撰旅団の小隊引率の任に当たりすこぶる功あり
      (『岩手県国会議員候補者列伝-一名・撰挙便覧』1890菅原藤四郎編)
     その二
 1877明治10年2月15日、鹿児島で不平士族による西南戦争が勃発。明治政府は東北の旧藩士族から臨時巡査を募集、それを征伐にあてようとした。鵜飼は新撰旅団第八大隊第三中隊小隊長として上京。ちなみに同大隊のほとんどが旧盛岡藩士で構成されており、総員1200名,その中には旧藩家老・北済揖、安宅正路らも名を連ねていた。しかし西郷軍の撤退とともに戦争も終息に向かい、鵜飼らは従軍せずに解隊した
(盛岡市http://www.city.morioka.iwate.jp/moriokagaido/rekishi/senjin/

 最大の士族反乱、西南戦争は8ヶ月もの長きにわたり西郷隆盛自刃で終る。その間、新聞は発行部数を伸ばし言論活動が活発になった。国会開設運動の全国組織として国会期成同盟が結成され、これを中心に自由党が生まれる。
 1881明治14年10月、自由党結成。自由民権運動の中核的政党総理は板垣退助、常議員後藤象二郎鵜飼節郎は幹部となり河野広中らと提携。
 1882明治15年、自由党盛岡支部が設けられ、鵜飼は委員として自由党の拡張をはかった。その鵜飼の演説ぶりは、
 ―――長江大河のごとき雄弁をもって演説壇上に立ち、眼光明々として侃諤(かんがく)の正義を主張し、常に生民を拯(すく)ふて平和幸福の域に躋(のぼ)らしめんと努るものは誰、人皆指を君に屈せざるはなし」と。
 

         鵜飼節郎 1856安政3年5月~1931昭和6年

Photo 父は盛岡藩士・鵜飼徳治。盛岡大沢川原に生る。

 1870明治3年、南部藩は70万両の献金に窮し廃藩を願い出た結果、盛岡藩となる。
 1871明治4年の15歳頃? 藩学校・作人館で学ぶ。藩校の同い年に原敬、*鈴木舎定がいる。
 前田連山著『原敬伝』によれば、原は1871明治4年末に上京している。鵜飼もそのころ盛岡を離れたかも、東京で法律経済など諸学科を修めた。
  *鈴木舎定: 1856安政3~1884明治17 盛岡藩士。中村敬宇の同人社で学ぶ。自由民権運動へ参加、舎定は岩手県における中心的な存在「求我社」で指導的役割を担い、機関紙「盛岡新誌」の主筆として自由民権運動への参加を呼びかけた。

 1877明治10年、西南戦争。
 1878明治11年、鵜飼は盛岡に帰り鈴木舎定らと民権伸張をはかる。栃内鉱郎・横浜慶郎・上田農夫らと自由民権運動結社「求我社」の再興、併せて「盛岡新誌」の再興に尽力する。 
 「盛岡新誌」編集発行は坂本安孝(1856~1917)、後に第九十銀行頭取、「岩手日々新聞」(のち岩手日報)社主など歴任。

 1884明治17年、加波山事件、秩父事件。10月、大阪で自由党大会開催、自由党解党。鵜飼も大阪に会合した。
 帰郷後、盛岡に臥せること3年
 ―――何トナク政海ヲ蝉脱(せんだつ、俗世間を超越)シ、深ク自ラ韜晦・・・・・・然レドモ (明治20年)*条約改正の議オコルヤ決然トシテ、非条約論ヲ唱エ、熱心ニ反対党ヲ攻撃(『岩手県国会議員列伝:私撰投票』1889村上繁次郞著)
  *条約改正: 幕府が締結した不平等条約を改正するための明治政府の外交交渉。

  『原敬日記』参照

 1901明治34年10月、原敬、盛岡に帰る。晩に政友会の有志者の鵜飼節郎、宮杜孝一等数名に招かれて、晩餐をともにし懇談した。来るべき選挙のため、政友会支部創立事務所に行き、いろいろ話や指示をした。
 1902明治35年6月10日 選挙運動、演説会盛会。
 藤沢座という芝居小屋で、政談演説会を開らく。宮杜考一、横浜幾慶(前出慶郎?)、與野市次郎、関皆治、菅原博と私が演説した。午後1時の開会なのに定刻前に満席になり総数1200名ほ どで、その他は入場する事ができなかった。
 6月14日相手が弱気。
 政友会岩手支部で選挙委員等が、私(原)を盛岡市から、佐藤昌蔵、鵜飼節郎、平田箴、阿部徳三郎、拾本與右衛門を郡部から政友会議員候補者に推薦したので、鵜飼、佐藤及び私が会って(他は欠席)、候補者会を開らいて種々の打合せをした。
 8月、第7回衆議院議員選挙、立憲政友会の原敬(盛岡)と鵜飼節郎(郡部四)当選。
 1903明治36年、第8回選挙もともに出馬当選。

 晩年の鵜飼は元老として、原敬亡き後の県政友会をまとめ、田子一民(たごいちみん 昭和の内務官僚・衆議院議員)らの後ろ盾となった。鵜飼の晩年の生活は清貧だった。
 その床の間には自筆の「清貧如洗」が掲げられており、盛岡市長を務めた北田親氏も“常に何事に対しても物質に拘泥せぬ気象(ママ)であったと記者に述べている(前出盛岡市HPより、写真も)

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