二本松製糸場・金山(佐野)製糸場、佐野理八(滋賀県・福島県)
『大隈候昔日譚』――我国最初の製糸工場
明治三年から四年にかけて、養蚕製糸と云ふこと、ソロソロ始まり、初めて上州富岡に製糸工場を造ったが、是れが日本で抑々初めての機械とりで、それまでは全で座繰りであったんである。
続いて九年に丁度、大久保(利通)が内務卿で、頻りに産業を奨励して遂に王子に羅紗の製造所を造り、次で絹糸屑糸の紡績を始めるべく、中山道新町に工場を造ったが、これが抑々日本での絹糸の始まりである。(松枝保二編1922報知新聞社出版部)
2014年6月、「富岡製糸場と絹産業群遺産」の世界文化遺産登録が決定した。フランスの技術を活用した官営器械製糸場として設立された近代産業遺産である。器械製糸になり、富岡に限らず工場では多くの工女が働いた。
工女というと「ああ野麦峠」(山本茂実)、若い女性の苛酷な労働を想像するが、富岡は模範工場として労働時間に配慮があったという。開国間もない日本にとって絹は重要な輸出品。
養蚕は各地で行われていたから、洋式製糸機械を取り入れた製糸場が各地につくられるようになった。
―――本郡の如きも往年、繭をもって直に販売し且つ製糸の法も極めて幼稚にして、上州座繰台足踏製糸器などを用ゆるに過ぎざりしが、当局者、製糸改良の急務なるを認め製糸場の設立を促したり。商業者亦世運に鑑み、金山には佐野製糸場、角田には広岡製糸場の如き有力なる事業家をみるに至れり
(『伊具郡史』渡部義顕著1916渡部義美)。
上州:群馬県。 伊具(いぐ)郡:宮城県南端、阿武隈川中流域と支流の内川・雉子尾川流域の郡。 金山:伊具郡丸森町金山。 角田(かくだ):宮城県南部。
佐野製糸所の所主は佐野理八という人物で、はじめ二本松で事業を行っていた。
図は、機械糸と座繰糸 (『生糸貿易之変遷』橋本十兵衛1902丸山社より)
佐野理八 1844弘化元年2月~1915大正4年
江洲(滋賀県)生まれ。十代で近江(滋賀県)の生糸商・殿村與左衛門の手代となる。
佐野は機敏で16歳1860万延1年ころ、すでに横浜の海岸に停泊中の外国軍艦に赴き各国の金銀貨を調査している。勝海舟が咸臨丸でアメリカに向かった年である。
次いで小野組に傭われ、糸方・古河市兵衛(のち足尾銅山経営)の下で奥州地方の糸方となる。小野組福島支店で宮城・坂田・山形・若松・米沢地方の業務を担当。やがて、安藤宇兵衛ら7名と蚕糸業を計画し、速見堅曹(1839~1913)を訪ね指導を受ける。速見は洋式器械製糸所「前橋藩営前橋製糸所」を設立、製糸業の礎を築いた人物である。佐野は速見に土地選択を依頼、その結果、二本松城址30町歩を値わずかで払下げを受けた。
1870明治3年4月、佐野は直ちに、二本松城址周囲の大木を切り倒し小野組生糸製造所を建設した。しかし、経営は農家より座繰糸を集め「折返造」という新製法に改めさせ、品質向上を図り販売したが、なかなか浸透せず惨憺たるものであった。
1872明治5年、奥羽の小野組総支配人となった佐野は、掛田村近傍の折返造を良しとして、折返器を千余組つくって各郡に配布した。折返は、糸筋細く品位はるかに良く、従来の製造法に勝った。この生糸を「掛田折返」と名付け海外に輸出したところ好評を得た。少女繰糸の図「五人娘」の商標で、横浜在留の外商と取引したのである。
1873明治6年7月、佐野は、東京築地・小野組製糸場の工女を集めて二本松製糸会社を起こし、二本松製糸場長となった。これが奥羽七洲、器械製糸の始めである。
1874明治7年、福島県から若干金、岩倉右大臣からも国益増進、士族授産の途を開いたなど金50円を下賜された。ところが一喜一憂は世のならい、11月小野組破産。
小野組は近江出身、明治初年の政商。当主小野善助は三井組・島田組とともに明治政府の為替方で三井小野組合銀行(のち第一国立銀行)を創設。取扱官金の借入で東京築地他の製糸工場、鉱山経営など事業を拡大したが政府に官金を回収され島田組と共に破産。
佐野はこれを好機と捉え、独力で佐野組を設けると、二本松製糸場経営に乗り出した。
1876明治9年12月、アメリカ・ニューヨークに生糸を直輸出。初めて実地販売の利を得た。翌年7月、再試売、巨額の利益を得た。
1877明治10年8月、東京上野の第一回内国勧業博覧会をはじめ横浜生糸共進会、宮城県共進会、宮城県および群馬県連合共進会などに生糸を出品、受賞した。
ところが、製糸場使用の源泉である官林に杉・松苗の植林が行われ、製糸に欠かせない清水が濁り事業の継続が難しくなった。佐野は二本松製糸場を解散、山田修、安西清兵衛に譲渡した。双松館がそれである。二本松を去った佐野は、養蚕業がさかんで戸長の協力も得られた宮城県伊具郡金山村に製糸場を創立した。
1884明治17年、製糸所の工事を開始。敷地は3710坪、釜数96、運転は水車を用いた蒸気機関、フランスで発明された最新の「ケンネル式」器械製糸機を設置した。
1885明治18年、製糸所・弘栄館開業。館主佐野理八、所長橋本平兵衛。
「製糸の声価すこぶる信用在り、利益を得るに至ると雖も創業なお日浅くして全く利益を見る能わざるものの如し」(『各地製糸場実況取調書』1889福島県伊達郡役所)。
1890明治23年、弘栄館を佐野製糸場(金山製糸場)と改める。製出糸は順良精好で、年間3000貫の生糸を生産、国内のみならず欧米にも知られた。また、200人余の工女を寄宿生活をさせた。工女は新潟・敦賀など遠隔地出身が多かった。
1902明治35年、勲六等瑞宝章
1915大正4年8月14日死去。72歳。
なお、佐野没後の大正中期以降、世界的不況で県内の絹糸工場はいずれも著しい経営不振に陥る。佐野製糸場も休業や買収などを経て、1937昭和12年に閉鎖された。製糸場跡に隣接する瑞雲寺の境内の隅に、女工の墓が立つ。
参考:
『日本製糸業の大勢:成功経歴』岩崎租堂編M39.12博学館 / 『宮城県の歴史散歩』2007山川出版社 / 『蚕糸要論』芳賀宇之吉1890只野龍治郎 / 『日本工業史』横井時冬1898吉川半七
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