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2014年7月12日 (土)

明治最初の女流作家、三宅花圃(田辺竜子)

 いつか或る雑誌に、私と樋口一葉女史とが仲が悪いように書いてあった。それは、大変事実に相違しているが、元はと云ふと、私の実家が貧乏だった事から起きた話である。
・・・・・・ある日、一葉女史(夏子)が、中島先生のお弟子に分けてあげる筆の代が、毎月二円くらい不足するので、先生が私を疑つて困ると云うて、泣き込んできたことがあつた。ところが、こちらは、今にも執達吏が来るだらうといふ、そんなとり込んだ時なので、せっかく夏ちやんが来たけれど、案内することが出来ず、私が玄関に立ちふさがって、上って泣きくどかうと思つて来た夏ちやんを、押しとめた。
 「そんな事、なんでもないではないの。あなたにさえやましい事がなければ、すまして居ればいいではないの。疑はれるなど思ふのは間違ひよ」
といふと、夏ちやんは
 「だつて、私が貧乏だから疑われるの。また、疑はれても無理がないと思ふの」 
                     (『貧乏を征服した人々』帆刈芳之助著1939泰文館)

 引用文の「私」は、三宅雪嶺夫人、女流作家として明治時代その名を馳せた三宅花圃。父は幕臣で外交官の田辺太一徳川昭武遣欧使節の随員としてパリ万博に出席。維新後は岩倉遣外使節団書記官長、元老院議官などを歴任した。
 その家が貧乏とは意外だが、花圃と一葉の貧乏はまるで違う。花圃の貧乏はのち思い出話にかわるが、一葉の貧乏は名作を生み、命を縮めた。一葉は萩の舎の助教をしていたから、借金の話はその頃の事だろう。

       三宅花圃 1868明治1~1943昭和18年

 田辺太一(連舟)の長女、兄二人。東京本所に生まれた。本名・田辺たつ子。
 子どもの頃から、近所にあった中島歌子萩の舎塾に通い和歌を学んだ。後年、妹弟子の樋口一葉とともに萩の舎の才媛と称される。

 1876明治9年、跡見花蹊の塾に通学。テニスなどの運動の代わりに身体を動かすため、50畳敷きの部屋でオルガンの代わりに三味線で音頭をした。当時、花圃は兄たちと木登りなどして遊び活発だったが、本を読むのが好き。また、落語三題噺を作って自ら楽しんだりもした。父が派手に遊び、家に芸妓が出入りするような家だったが、母は表に出ず、家を守った。花圃は男のように育てられ、大人になっても男子の前で恥ずかしがったりしなかった。
 跡見花蹊の塾に数年、その後は家で和漢の学を修めた。絵を奇行に富んだ酒豪の浮世絵師・河鍋暁斎に習った。琴は山勢松韻、三味線は杵谷お六を家に呼んで稽古した。

 1881明治14年、13歳の花圃は庭前の梅を見、清国臨時代理公使で赴任中の父に一首送った。
       とつ国の春日やいかに長からん 見せまくほしき庭の梅が枝

 1885明治18年、神田一橋の東京高等女学校(お茶の水)入学。 理科、数学を習うため下級クラスに入ったが、英語は上級に入れられ、神田乃武(かんだないぶ・英学者)の教を受けたが、実力がなく苦労した。
Photo
 1888明治21年6月、在学中、『藪の鶯』を発表。
 図は「藪の鶯」挿絵。
 序を寄せた福地源一郎は父・太一の元に出入りしていた政治評論家。


 ―――『藪の鶯』は中編小説で花圃の出世作。坪内逍遙(春の屋主人)の『当世書生気質』に刺激されて書いた。当時、家産が傾いていたのを助けようとしたのも製作動機の一つ。
 物語は、西洋かぶれ子爵篠原の女浜子の堕落と、浜子の許婚・勤の妻となる松島秀子とを対照して、伝統的な婦徳尊重の立場から欧化思想を批判し、勤がワシントンよりフランクリンを敬慕し、秀子の弟が土木業で名士となるあたりに、啓蒙思想が反映している
       (『現代日本文学事典:関良一』1965明治書院)。

 ―――『藪の鶯』作りました当時、私の家は、昨日の繁栄は夢のような不如意になりまして、(イギリスで病没した)兄の法会さへも思ふにまかせませんで居りました時、私は病中に筆をとりましたのです。漸うようそれで事足りたのでございます
      (『名媛の学生時代』1907読売新聞社)。

 この頃、西洋流行のときで舞踏が流行し、女学校は文部省直轄であったので、毎週舞踏会があり、貴族や軍人も出席した。
 1889明治22年、皇后陛下の行啓があり、『藪の鶯』を書いた生徒として目通りした。
 ―――私の一生の有難い思い出で、その時は嬉し涙に咽びました(同上)。

  同年3月、東京高等女学校卒業。卒業後、明治女学校で英語を学ぶ。
  8月、「東京開市三百年祭」(委員長・榎本武揚)があったとき、横山孫一郎などに頼まれて[八朔祭]の歌を作って清元にし、それを吉原芸者が歌って踊り喝采を拍した。また横笛の曲を作り長唄にした。
   (『明治閨秀美譚:小説家当選者田辺竜子』1892東京堂/『名媛と筆蹟』中村秋人1909博文館)

 1890明治23年、「芦の一ふし」 「八重桜」 「教草おだまき物語」などを『女学雑誌』『都の花』『読売新聞』などに発表
 1892明治25年、短編小説集『みだれ咲』刊行。この年、花圃は*三宅雪嶺と挙式。媒酌は、『女学雑誌』主宰の巌本善治・*若松賤子夫妻。のち5人の子をもうける。

 * 三宅雪嶺: 本名・雄二郎。ジャーナリスト・評論家。政府の専制的傾向と欧化主義に批判的立場、明治21年政教社を創立。『日本人』創刊、国粋主義を主張。
 * 若松賤子: “明治の小説家・翻訳家、若松賤子(福島県)”
   https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/.preview/entry/770549853a458a0ce347b35081f96ec9

 1893明治26年、花圃は『文学界』創刊に関与し、萩の舎の後輩・樋口一葉を寄稿家として推薦。花圃は一葉の創作意欲を刺激し文壇に紹介したが、晩年の回想録には、一葉に対する辛辣な批判が見える。
 1894明治27年、家門をひらいて和歌を教授したが、内助の功的なものであった。
 1895明治28年12月、博文館『文芸倶楽部・臨時増刊号:閨秀小説』をみると
 ―――はしがき/中島歌子、萩桔梗/花圃女史、わすれがたみ/若松賤子、十三夜/樋口一葉、暮ゆく秋/大塚奈緖女ほか掲載。閨秀(女流)という存在が市場化され、特集号は発行後、はやくも3万を売り尽くした。
 花圃はこの風潮に動かされ『露のよすが』など短編を発表するも、作家活動は30年代で終わる。数年後、土曜日毎に親しい知己を集めて歌を詠んだりするのが楽しい様子。

 次の引用文は、花圃「谷中村の野花」から。
 足尾鉱毒事件から18年後、谷中村を訪れ被害地に群れ咲く野の花を見、文と歌を『花の趣味』に収めた。

 ―――谷中村は多年の迫害に種々の辛苦もかひなくて、今や全滅せんとすと聞きて、なんとなくただにはえあらで、にはかに思ひ立ちてゆく、古河に下り立つ停車場に白衣の三人いかめしきは何ぞとみれば、巡査の下り立つ
・・・・・・車に乗りてゆく、思ひ川、渡良瀬川の、合して利根にそそぐ、三国橋のあたり、照りこむ日かげにサアベルのキラメク、いとものものし・・・・・・かの破壊さるる家のあれば、ただ憐れとのみ見べきものか・・・・・・かの田中翁の絶叫して、非道を訴え非義をせめらるるに心幾分を安うして静粛として佇む無智の村民
・・・・・・誠にこの谷中村も荒るるにまかししを幸として、雑草の花のさかりなるいと美(うるわ)し、烏の豌豆とや、半夏生とや、茅がやの中に白くうちそよぐに
人しらぬくさ間の花もおののかし おのか色香のさかりみせたり

 花はどこに咲いても美しいが、眺める者の心裏はどうなんだろう。被害地に咲く花、谷中村の被害民も、花圃と同じく、草花の美しさをそのまま受けとるだろうか。ふと、東日本大震災、原発事故の地に生える雑草を写した映像が浮かんだ。

 1914大正3年、仏教運動家・高島米峰著『店頭禅』(日月社)に序を寄す。
 随筆集『その日その日』からは、晩年の花圃の交際、生活が垣間見える。文筆生活は20年に及んだが、文学上の発展は見られず、しかし近代文学史上最初の女流作家として後進に刺激を与え、今に名が残る。
 1943昭和18年、没。75歳。

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