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2014年7月 5日 (土)

硬骨朴直の代議士、安部井磐根の半生(福島県)

 「白票を水増し:市選管職員ら3人逮捕」というニュースに耳を疑った。それでなくても、憲法解釈で孫が軍服を着させられる日が来るんじゃないか不安が募る現今。そこへきて「投票結果を操作」だなんて。世事に疎いおばさんでも日本の先行きが心配だ。ところで白票問題とは異なるが1票差で候補者が泣き笑いという総選挙が昔あった。


 1917大正6年。会津若松市(福島4区)で、実業家の新人白井新太郎311票、柴四朗(東海散士・会津藩)310票、わずか1票差に対し河野広中は、
「柴四朗の敗因は問題ですね。僅々一票の差なんですが、その一票が<柴四朗殿閣下>と記され無効というんです。そんな馬鹿なことがあるものですか。明瞭に柴四朗と記され、殿閣下の敬称を附したのだから、これは当然有効ですよ。訴訟ものです」。
 柴四朗は「殿・閣下」を書き無効になった2票の訴訟をおこし、3ヶ月後に勝訴、逆転当選となった(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』)。

 三春藩出身・河野広中の選挙区は福島県3区。第一回衆議院議員選挙から14回連続当選、東北民権運動の指導者。第2区は二本松藩出身、安部井磐根である。
「名物議員の三人づくし」(日本新聞)によると、三老=安部井盤根・鈴木重遠・津田真道、三謀=犬養毅・佐々友房・柴四朗、三奇・三罵=田中正造ほか。

         安部井磐根 1832天保3年~1916大正5年

 父は二本松藩士・安部井又之丞。
 1868明治元年5月、戊辰戦争で二本松藩が奥羽越列藩同盟に加わったとき、奥羽諸藩の集議所詰となり仙台に赴き次いで白石に移った。しかし磐根は藩論に反対、また官軍に通じているとの嫌疑がかかり仙台で入牢の身となった。そのとき詠じた一首
     吾を人何かいふらむ言の葉の 露よしばしは玉とみゆとも

 二本松落城の日、磐根の父は城内で自刃。仙台の牢にあった磐根は嫌疑が晴れて二本松に戻った。大憐寺に謹慎中の藩主家族を見舞うと、藩主の旧領回復に奔走した。
 1869明治2年4月、10万石の丹羽家は二本松5万石に減封される。磐根は市政を委され、市民に御奉行様と呼ばれた。次いで若松県に奉職。
 1870明治3年秋、弾正台(行政警察機関)に採用される。
 1871明治4年、若松県出仕。翌年、病気療養のため辞職。
 1874明治7年1月、家録および士籍を奉還。二本松に帰郷。
 1875明治8年10月、板垣退助らの自由民権運動が盛んで、磐根も「明八会」を二本松町に組織し政治、時事を論じた。
 1877明治10年西南戦争、親族の陸軍少尉・安部井香木が豊後にて戦没。

 1878明治11年、福島県会議員、ついで議長に推される。県令は三島通庸
 1879明治12年、安達郡郡長に任命される。
 1882明治15年、三島県令の施政に不満をもち辞任。
 1886明治19年、有志者の薦めもあって選挙に出、県会議員に当選。議長、常置委員。
 1888明治21年、知事副警視総監

 1889明治22年2月、福島県会議長として憲法発布の式典に参列
 1890明治23年、第一回衆議院議員選挙に当選、大成会に属す。
 大成会は漸進主義を主張、政府支持を標榜し第1議会に臨んだが閉会後、翌明治24年解散。東北地方選出の安部井磐根・藤沢幾之輔・斉藤善右衛門らは、第4回通常議会に臨むにあたり神鞭知常らと共に、「有楽組」を組織、民党として行動した。

 1893明治26.11.29 衆議院、安部井磐根の演説 「星は議長か番頭か
 ――― 本員が提出しまする緊急動議の案を一応朗読致します(中略) 抑も衆議院議長星亨君の行為は幸いに法律の問の所とならざるも、社会の制試は之を許さぬ、天下囂々之を口にし、之を筆にして止まざることは、諸君も既にご承知の通りであります・・・・・・ 大阪米商会所頭取・玉手弘道、同じく株式取引所頭・磯野小右衛門等が、星亨君を顧問に招聘したるは、衆議院議長なるが故なり・・・・・・ けれども疑は疑に存して暫くは問はざるに措きまして、かの朝野政商と待合茶屋に密会したるが如きは、我が衆議院の体面と栄誉を汚損したものである・・・・・・今や官紀振粛の問題は・・・・・・ 毫も黙止することは出来ませぬで、この議を発する所以でござります
    (『帝国議会雄弁史』弘田勝太郎編1925事業之日本社)。 

 ――― 吾人は知る。衆議院議長たる星亨という剛の者を議会外に放逐せんとして、先ず不信認の決議案を出たし君の意気、遂に満場一致を以て概案を決議したる事実に照らしても彼の人となりを知る・・・・・・ その赤貧洗うが如しに於いても君の性行を証明することができる (『人物と長所』岩崎徂堂1901大学館)。

   この明治26年(第2次伊藤内閣)星亨の除名後、磐根は副議長に選ばれる。ちなみに、磐根の東京の住まいは、東京市神田区小柳町19・稲本ワカ方。
 日清戦争直前、大井憲太郎、安部井磐根らは対外硬派の「大日本協会」を創立。 内閣の外交政策を軟弱だとして、条約改正問題を中心に内地雑居現行条約励行論を主張。         
 第5議会で、条約励行建議案・千島艦事件上奏案を提出して政府を追及。一時世論の中心となるも、治安妨害の理由で解散させられ、政府は12月30日衆議院を解散
 安部井磐根・神鞭知常らは「政務調査会」を組織、他の一部は同盟倶楽部に加盟。

 1894明治27年~28年、日清戦争。
 1896明治29年3月(第二次松方内閣)、進歩党結成。第5議会における非自由派の六派連合=立憲改進党・国民協会・東洋自由党・同盟倶楽部(柴四朗ら)・政務調査会(安部井磐根ら)・同志倶楽部(菊池九郎ら)、党首大隈重信。翌年、藩閥との対立が深まり提携を解消。

 1906大正5年、85歳で没。
 『盤根遺詠』『小峰城懐古詩歌集』(会津若松図書館蔵)。

  参考:  『日本帝国国会議員正伝』木戸照陽1890田中宋栄堂) / 『衆議院議員候補者列伝:一名・帝国名士叢伝』大久保利夫1890六法館 / 『日本政党変遷史』青野権右衛門編1935安久社 

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