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2014年8月23日 (土)

藤山家の門、藤山雷太・尾佐竹猛(佐賀・金沢)

 ただの歴史好きが幕末明治を知るのに「明治文化全集・全24巻」は欠かせない。この全集を編修・刊行したのは、吉野作造宮武外骨小野秀雄尾佐竹猛明治文化研究会を発足させた8人。
 その8人はもとより全集が完結するまでには歳月もかかり、多くの学者、研究者ら多くが関わった。その誰もが豊富な明治のエピソードを抱えているから、それぞれの著述はとても興味深い。明治を知りたい気持ちを満足させ、新たな興味へとつないでくれる。
 古本カタログにはその類の書籍が載り、たまに購入するが積ん読になりがちだ。その積ん読に明治文化研究に功績のあった尾佐竹猛『明治大正政治史講話』1943一元社(序・明治76年盛夏)があったので開いてみた。
 目次をみると「藤山家の門」というのがあり、藤山って一体どこの誰と思った。読むと、大金持ちの実業家・藤山雷太であった。門と直接関係ないが雷太の長男は、政界に進出し「絹のハンカチを雑巾にする」と表された藤山愛一郎である。
 明治76年(昭和18年)に書かれた「藤山家の門」、他にも在りそうな建造物の歴史話だが興味深い。引用しつつ紹介したい。それにしても、その門、戦災にも遭わず残っているかな。尾佐竹氏は司法省時代に門を撮影したそうだが、写真はあるのかな。

 

 

 

       「藤山家の門」   尾佐竹猛(おさたけ たけき)

 

  故藤山雷太氏は財界の大立者であるに反し、僕は陋巷に住む貧乏書生であるから、その間何等の関係ある筈はないのであるが、唯だ強いて思ひ出せば、曽て福澤先生研究会の席上、藤山氏の後に僕が一場のお喋舌をしたくらいで、所謂謦咳に接するといふ程度にだも達せぬ没交渉の間柄である。

 ・・・・・・実は余計な物数奇から同家の門について少し調べたことがあるのである。誰でも同家を訪ふものの嫌でも応でも気のつくことは、同家の門は堂々たる大名の門であることに目を瞠るのである。失礼ながら藤山氏はお大名の出身でもない・・・・・・これは藤山氏が何処からかお求めになつたのか、これが同家に買われたことについて最も喜んだのは僕である。
 ・・・・・・門が藤山家に買はれる前には、今の海軍軍法会議の在る処に、淋しく立腐れにならんとして居つたのを、日夕眺めては、涙をこぼして居つたのが僕であつた。
・・・・・・
 それは、その形式が「両出御番所御長屋門」といつて、両方の番所が突出して居て、長屋が続いているのは、今日現存している高輪御殿の御門、閑院宮家の御門、華族会館の門、大学の赤門とも形を異にして居るのが珍しい。旧江戸の名残りも漸次湮(ほろ)びて、特に(大正)大震災以後には建築物などの殆ど残らなくなつたのに、斯かる特殊の形式の門の残ついていることは、懐かしいのみならず、その来歴が親しみ深いのである。
・・・・・・
 あの門は1897明治30.3.22 宮内省より海軍予備校として海城中学へ払下げられたので、その前は今の東京駅付近にあった司法省の門であり、1871明治4.9.24には畏くも明治天皇の行幸を仰いだこともある光栄ある門である。
 而して、その以前は備前岡山32万石の池田家の添邸門である。しかも更に遡れば幕府評定所の表門であつたといふ説があるが、此の点は明確なる史料を欠くのを遺憾とする。
 若し、この説にして真正ならば、幕府最高の裁判所たる評定所の門が司法省の門となり、それが偶然にも、司法省、裁判所の相並ぶ日比谷付近に移され、その場所がまた裁判に関係のある海軍軍法会議の敷地となつたいふのであるから、この方面に多少の関心を持つ僕としては、愛着の涙を濺ぐ・・・・・・

 僕はこの門が藤山家の門になつたとき、喜ぶの余り、某雑誌に報告した。その一編の趣意は
―――大名の門が司法省の門となり、最後に富豪の門となった。これは近代政治が、封建政治より官僚政治となり、財閥政治となつたことを表徴するものである。
・・・・・・
 この記事が出た数日後、藤山雷太氏の秘書が訪ねて来て、門の来歴を書いてくれ、またその書いたものを石に刻つて門に樹つるからといはれたのには、如何に心臓の強い僕でもダアとならざるを得なかった。哀訴嘆願して書くことの容赦を願つたのである(『明治大正政治史講話』附録第八)。

 

     *****

 

     尾佐竹猛

 1880明治13~1946昭和21年
 明治・大正・昭和期の司法官・歴史学者。旧金沢藩士で漢学者尾佐竹保つの子。
 明治法律学校(明治大学)卒業。福井・東京・名古屋各地方裁判所判事、東京控訴院判事を歴任。1924大正13年大審院判事、1942昭和17年大審院検事。この間、法制史的随筆や明治文化史・憲政史の研究を発表、法学博士となる。
 研究は社会風俗にも及び、考証に厳しい自由主義的学風で、晩年明治維新史研究に業遺跡を残した。明治文化研究会を設立、「明治文化全集」編纂、刊行した(『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂)

     *****

 

     藤山雷太

   1863文久3~1938昭和13年
 実業家、肥前藩出身。慶應義塾卒業。長崎県会議員を経て三井銀行に入り、中上川彦次郎のもとで芝浦製作所の再建や王子製紙の乗っ取りに成功。また東京市街電鉄・日本火災・帝国劇場創立に参加。
 1909明治42年から20余年にわたり日東疑獄後の大日本精糖の整理・再建に功績をあげ、これを中心に台湾精糖・パルプ業の開発に成功し、大正・昭和の財界に、旧財閥に対抗して一方の雄となった。晩年は東京商工会議所会頭をはじめ要職を重ねた(『日本史辞典』1981角川書店)

 

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 【けやきメモ no.2】

 過去記事
<大正デモクラシーに理論を与えた人、吉野作造(宮城県)>
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-f3aa.html

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