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2014年8月16日 (土)

明治期、ホノルルの名物男・勝沼富造(福島県三春)

 昨夏、中学生の孫が「戦争の記憶がある人から話を聞く」宿題をもってやってきた。戦中派だが記憶がなく、明治・大正生まれの両親から聞いた話を伝えた。「空襲で真っ赤になった空。幼児の私は空襲警報が聞こえるとすぐ防空頭巾を被り母にしがみついた。空襲を避けて東京の貸家を転々した」など。終戦後、一家で東京に戻ったがタケノコ生活。父は着物を持ち千葉へ買い出し。行く度、交換の米が減り父母は農家にいい印象がない。私にもその感情は刷り込まれた。ところが、結婚して夫の実家で気付いた。義母から「戦争中、疎開の人が畑の作物に手をつけ」というのを聞き“悪いのは人でなく戦争”と。

 2014年8月15日は終戦から69年、日本はずっと平和だった。その69年を遡ると1876明治9年にあたり翌年に西南戦争があった。その後、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦、そして終戦。こんなにも戦争していたんだと今さら驚く。戦争は庶民に負担を強、生活が苦しくなる。そのためか、夢を抱いてか、明治早々から海外移住を志す若者がいた。その中にハワイ移民の先駆者、勝沼富がいる。『福島県民百科』(1980福島民友新聞社)ほかを参考に記す。

  勝沼富造  1863文久3年~1950昭和25年

 祖父は三春藩士、父は平藩柔道師範・加藤木直親、母は士族花沢家長女・えう子。福島県磐城平で長男・周太郎、次男・重教が生まれ、三春町亀井に移住後、三男・富造が生まれた。
 戊辰戦争時、官軍が三春に入り5万石の小藩三春藩は降伏、会津攻めの先導として会津に出陣した。次はその頃の俗謡、『重教七十年の旅』(1928加藤木重教)より

   会津ゐのしし仙台むじな三春のきつねにだまされた

 1877明治10年、加藤木富造14歳。次兄の重教は既に上京し工部大学校で電信技術を学んでいた。ところが、西南戦争が起こると技師不足になり退学させられ電信局へ配属される。後に電信技術官として東北地方在勤となる。
 1878明治11年、富造は勝沼盛也の家を継ぎ勝沼富造となる。
 この年、工部技手となった重教は弟の富造を仙台に呼び寄せ英語学校(のち第二高等学校)へ入学させた。ところが、富造は忙しい兄が留守の間に無断でやめ帰郷、その後、田村郡から給費生に抜擢され上京、東京獣医学校で学んだ。
 ―――当時、三春は馬産が盛んでしたが、獣医が足りませんでした。そこで、地元では富造に学資を提供して獣医の勉強をさせることにしました(http://blogs.yahoo.co.jp/minato_koichiro/folder/887396.html <新方丈記>)。
 どこの獣医学校か詳しい記述がなく、見たところ2校あったので列記する。ちなみに、富造は卒業しても故郷に戻らず、母校の助手として東京での生活を継続したのである。
    <獣医学校その一>
 1881明治14年設立の私立獣医学校、産業・軍事をはじめ多方面の要求にこたえ得る人材を育成。『東京遊学案内』1898によれば、「授業料一ヶ月2円、校舎は牛込区市ヶ谷河田町にあり、9名の教員を以て60名の生徒を養ふ」。
    <獣医学校その二>
   私立東京獣医学校。『新苦学職業学校案内』1911によれば、位置・東京府下下渋谷(エビス停車場際)、獣医科3年、蹄鉄科1年、授業料1年36円。特典・本科生は徴兵を猶予せられ卒業者は無試験1年志願兵たる資格を有す。

 
 次兄重教は、電信局電気試験所で電話機・電話交換法を研究し1888明治21年に日本初の火災報知器を製作、さらに技術を学ぼうと渡米を計画すると富造が同行を願った。
 1889明治22年、重教は富造連れて渡米。4月15日東京新橋を発ち横浜港からアメリカ汽船ニューヨーク号でサンフランシスコに向かった。船室は最下等で中国人が多かった。サンフランシスコにつくと、富造は働きながら夜学に通うことにした。
 富造と別れた重教はニューヨークへ赴き、電気技術を学び翌年7月帰国する。この間の事は『重教七十年の旅』に写真付き、詳しい記述がある。

 1892明治25年、富造の兄重教へのアメリカ通信
 ―――馬車馬が電鉄レールを横切らんとする際、電気に感じ、馬は数尺空中に跳ね飛ばされて即死。後に馬を解剖したるに腸間膜腺充血心臓肥大をみる。

 1896明治29年、加藤木重教は「電友社」を創設。電灯工事、電機輸入などの事業のほか、日本初の電気雑誌『電気之友』を創刊、毎月発行した。
 この頃、勝沼富造はなおアメリカでソルトレーク大学留学中、専門の獣医のほか一般農業、神学、英文学などを勉強。卒業後、ユタ州で獣医として働き、モルモン教に入信。日本人初のモルモン教徒となりアメリカ市民権も獲得した。

 1898明治31年1月、10年ぶりに日本に戻った富造は、熊本移民会社が東北から移民募集を始めると、その募集係となって各地で移民を説いた。7月、富造は大量の東北移民を連れて、ドウリック号で横浜を出航、ハワイに入植した。
 東北移民合資会社(仙台、『海外出稼案内』1902)もあったのに、富造が熊本移民会社で東北人を募集した経緯は判らない。ただ、熊本移民会社で辣腕を振るった井上敬次郎が、のちに東京市電気局長になっているので電気関係、兄重教の縁とも考えられる。
 当時、移民には自由渡航と手数料などを支払い移民会社を通してがあった。ハワイは「官約移民」の制度があったが、廃止されると民間移民輸送会社がこれに代わり、巨利を博した(『布哇案内』1936日本郵船株式会社)。

 1901明治34年、獣医師として知られた富造はハワイ・ワイアルア在住星名謙一郎の結婚式に出席([移民の魁・星名謙一郎のハワイ時代後期]飯田耕二郞)。
 同7月25日、布哇(ハワイ)日本人会。アメリカ丸乗り組み日本人女性がハワイ衛生局員による不当な検疫にあったため抗議集会が開かれた。常議員・勝沼富造も出席した。

 富造の人柄
  ――― (福島県三春・ホノルル府)君はかつて米国において獣医学を研鑽し開業免状を得、ハワイに渡来しホノルル府に開業せしが、大いに在留内外人の賞賛を博し、傍ら移民事業を幇助せり。蓋し邦人にして米国獣医たる者は君の他に之あるを聞かず、其技量特に絶妙の聞こえあり(『新布哇』藤井秀五郎(玄溟)1902文献社)。
 富造は移民局移民官をつとめ移民の世話をする傍ら、日刊「日布時事新聞」の副社長になった。世話好きで「宴会博士」などとあだ名をつけられ、ホノルル社会の名物男だった。
 1950昭和25年、87歳で死去。著書『甘蔗の志ぼり滓』(1924刊・馬笑庵)はホノルルの日本語新聞のエッセイをまとめたもの。

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【けやきメモ no.1】
 2014.8.16毎日新聞――― 今日8月16日「女子大生誕生の日」。1913(大正2)年のこの日、東北帝国大学(東北大学)が女子受験生3人の合格を発表したのだ―――

  <科学・数学女子、女性初の帝大生・黒田チカ/2013年10月12日>
  https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/10/index.html
 

 女子大生の日を知って以前書いたブログを思い出した。お時間があればご覧ください。ちなみに当ブログの記事数は306になります。
2014.8.16

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