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2014年8月 9日 (土)

障害者スポーツ&金メダリスト成田真由美(神奈川県)

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 2014.8.1~8.3「毎日新聞主催高野山夏期大学」に初めて参加した。東京駅から新幹線で出発、新大阪から電車を乗り継いで高野山に到着、宿坊に二晩泊まった。三日間、朝から晩まで各分野の講演を聴いた。得るところがあった。
 1921大正10年から始まり今年が90回目、その歩みをみると講演者は、与謝野晶子・鉄幹夫妻、倉田百三、和辻哲郎、直木三十五、吉川英治ら昔夢中で読んだ作家、また政治家・学者・実業家・スポーツマン・高野のお坊様などそうそうたる顔ぶれである。リピーターが多いのも頷ける。

 宿坊は5人の相部屋だったが、初対面の関西の4人とすぐ馴染んだ。リュックから飴をだし勧めたら、大阪の同世代に
「アメちゃんをありがとう。あなたも大阪のおばちゃんになれる」と太鼓判を押された。彼女は水泳が趣味、自分も卓球をするので「幾つになっても運動は良い、若くいられる」と話に花が咲いた。出会い、これも高野山大学の良さかも。

 

 

 第一日目の二人目、パラリンピック水泳メダリスト・成田真由美さんが車いすで登場。ラメを施し華やかに装飾した車いすでスイスイ、颯爽と壇上に現れた。
「自分の可能性を求めて」と題して講演する成田さん。ハキハキと明るい声で元気いっぱい、楽しそうにお話され、聴いているだけで元気がもらえた。でも、話の内容は、甘くはありません。

 車いす故の理不尽な目に遭った話の数々、水泳のコーチに巡り逢うまで何度も断られたスイミングプールの門前払いをはじめ、あんまりだという目に何度もあっています。
 嫌な思いは数知れず。なのに、成田さんはユーモアを交えて話されるので会場が笑い声に包まれもしました。辛かった事、あんまりな事を詰問調で訴えるのでなく、笑いを交えて話されました。かえって身につまされ、若いのになんとできた人かなと感心しました。それだけ苦労が多く困難に鍛えられてということですよね。

 今、成田さんは東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事をつとめていますが、そのとき着る上着のサイズは19号とか。Mが9号だから19号はいかにも大きい。それほど肩回りに筋肉がついているのは、厳しい練習、激しい鍛錬をしている証拠。金メダルを獲るのはなまなかの事ではない、改めて感じ入りました。講演の終わりに成田さんのアテネの金メダルが会場を一巡、私も触らせてもらいました。メダル裏の点字が印象的でした。

 高野山から帰って、パラリンピックを『大辞林』で引いてみました。
 パラリンピック――― Paralympic [paraplegiaとOlympicの合成語]脊椎障害者の国際スポーツ大会。イギリスのストーク・マンデビル病院の医師グットマンが始めたのがきっかけで、1952昭和27年国際大会が開催された。Photo_2


 障害者のスポーツは『障害者とスポーツ』(高橋明著2004岩波新書)によれば、傷病兵のリハビリから始まり、18世紀には、フランスやドイツで、いわゆる運動療法としてスポーツが活用されている。これが、イギリスやアメリカに伝えられて、世界中に広まった。

 こうしたスポーツへの関心が高まってきたのは1914~19第一次世界大戦以後で、とくに1939~45第二次世界大戦中に大規模な戦争によって、数多くの傷病兵が生まれたことが大きな要因。戦争によって受けた障害で歩くことに支障が出て、車いすを使うようになった人たちのリハビリテーションのために、積極的に導入された。

 なかでも、イギリスの神経外科医でパラリンピックの生みの親であるグットマン博士(Sir L.Guttmann)の功績が讃えられている。
 グットマン博士はドイツのポーランド国境に近いトストという町で、ユダヤ人のの両親の元に生まれた。第一次世界大戦後、反ユダヤの空気が強まったドイツを脱出し英国の亡命。第二次世界大戦で多くの戦傷者が出ることを予見した英国は、救急病院から社会復帰までの専門病院の一つとしてロンドン郊外に、国立脊髄損傷センターを設立。そのセンタ^長にグットマン博士が招聘されたのである。
 ここで治療を受けた人たちの85パーセントが有給で就職するという成果を出したといわれ、その要因の一つとして、医学的リハビリテーションにスポーツを取り入れて、身体的機能の回復訓練、心理的効果などに大きな成果をもたらしたことがあげられる。

 前出の成田真由美さんは13歳で脊髄炎発症、車いすを余儀なくされた時も水泳は嫌い、車椅子100メートル走、ソフトボール投げで全国大会優勝をしていた。その大嫌いな水泳を始めたのは、障害をもつ水泳選手から団体のメンバーが足りないから一緒にと誘われたからだという。
 冗談半分だと思うが、岩手国体にでれば萩の月や牛タンが食べられるもあって一念発起、練習に励みついに出場を果たし、以来、今日のメダリストへの道に繋がったという。
 今や障害者スポーツも様々な分野があり、裾野が広がっているようだ。私たちもテレビや新聞でさまざまな障害者の競技を目にするようになった。でも、わざわざ見ようとしない限り障害者の競技大会を目にすることは殆どない。こうした中、成田さんはパラリンピックや障害者への理解を求め、全国各地へ出向いている。

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 また、パラリンピックを目指すアスリートたちを応援してる団体や個人もいると教えてくれるのが『ようこそ障害者スポーツへ』(伊藤数子2012廣済堂出版)。読んで、ここに登場する人や団体があって、世の中進歩しているのだと考えさせられた。
 表紙裏の本文抜粋に驚かされるけど、立派なことをしているんだと肩肘張らず率直な文章で読みやすい。多くの人に読まれるといいなあ。

 ―――人口呼吸器が外れてしまい、選手がその場でバタッと倒れてしまった。驚いたのはここからです。人工呼吸器が取り付けられ、今、命をつないだばかりの選手が休むこともなく、そのままプレーを続行したのです。考えてみれば、彼らに時間がありません。いつプレーができない身体になるか、いつまで生きていられるか、という中で彼らはプレーをしているのですから(本文より抜粋)

 

 

 

 

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コメント

岩波新書「障がい者とスポーツ」の著者の高橋と申します。本のご紹介していただきありがとうございます。

投稿: 高橋明 | 2015年7月17日 (金) 22時19分

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