« 愛の林檎/蕃茄(あかなす・トマト) | トップページ | 障害者スポーツ&金メダリスト成田真由美(神奈川県) »

2014年8月 2日 (土)

チョウノスケソウ、幕末の植物採集・須川長之助(岩手県)

 東日本大震災から4年目。何も出来ないまでも、せめて、被災地の苦労を察する気持ちだけは持ち続けたい。しかし、つい忘れがちだ。それを思い出させ、どうかするとこっちが励まされるのが、毎日新聞・毎週金曜掲載「希望新聞」だ。先日の希望新聞、“記者通信”は、「8月3日開催・釜石はまゆりトライアスロン大会」を復興ままならぬ中、自らも被災者の大会事務局長らが困難を乗りこえ前へ進む様を伝える。

 トライアスロンの鉄人を一人知っている。大学通信教育スクーリングで知り合った働きながら学ぶ若者だ。体育の授業卓球で知り合い、自分は経験者なので手助けし、英語の授業では彼に助けてもらった。彼は働きながら学び、トライアスロンも頑張り感心した。
 スクーリング授業で10人と知り合ったが、4年で卒業したのは彼と私だけだった。彼は卒業後、勤務先に大卒として雇い直してもらったという。
 今でもトライアスロンと聞くと、20数年前に彼と乗り合わせた総武線車内を思い出す。JR飯田橋駅から乗ると、車内は東京ドームの巨人戦帰りの乗客でいっぱいだった。人に揉まれながら、テストやレポートの話をした。傍目には母子だったろうが、学友だ。その学友も、はや中年、まだ鉄人レースに参加してるかな。続いいてれば、「釜石はまゆりトライアスロン大会」にエントリーしたかも。

 

 さて、太平洋側の釜石市と離れた内陸岩手県中央部、北上川の中流域、盛岡市と花巻市の間に紫波郡がある。『紫波郡誌』(1926岩手県教育会紫波郡部会編)を開くと、「紫波」の地名は古くから史書に表れ、シバ・シワと呼ばれるがシハと音読するのが正しいとある。また、明治初期の紫波郡の所属の転変も興味深い。
 1871明治3年8月盛岡八戸2県に分属、同11月盛岡県に専属、明治5年岩手県治。
 郡誌には「人物誌」があり、ロシアの学者の植物採集を手伝い、その名が付いた植物もあるという須川長之助に興味をもった。幕末日本の植物採集といえば、シーボルトが有名であるが、長之助が採集助手をしたマキシモウイッテCarl Johann Maxmowicz(マクシモビッチ1827~1891)はそれに劣らぬ学者といわれる。

Photo_2       須川長之助

 1842天保13年2月6日、農業・須川与四郎の長男として紫波郡下松本村21番屋敷(現・岩手県紫波郡紫波町下松本字元地)で生まれた。
 長之助の家は父の与四郎がわずかな田畑を耕作する貧しい農家で、手習いの機会が無く独学で読み書きを覚えた。    
 12歳で奉公に出され、1858安政5年、年季が明けて実家に戻る。
 1860万延元年18歳の時、下北を経て箱館に渡った。最初は大工の見習いとして住み込み、後に八幡宮の別当(馬丁)、さらにアメリカ商人ポーターの馬丁として住み込む。ある日、仲間の善助がお金のことで不正をはたらき、長之助もその巻き添えで辞めざるを得なくなった。 

 そんな時、たまたま入ったロシア正教会(現函館ハリストス正教会)神父に、来日したばかりのロシアの植物学者マクシモビッチを紹介され、風呂番兼召使として雇われた。
 マクシモビッチは「黒竜江地方植物誌」という論文で科学・技術・芸術の優れた業績に対して授与されるデミードフ賞を受賞した新進気鋭の植物学者である。
 須川は箱館ロシア領事館に寄寓するマクシモビッチのもとで誠実に働き、植物にも興味を持ったので気に入られ、チョウノスキーと愛称され弟のように可愛がられた。

 当時、外国人は開港場から10里以遠の地域に旅行することを禁止されていたが、日本人に採取させることは自由で、マクシモビッチは長之助に頼った。マクシモビッチは長之助をつれ臥牛山(函館山)に出かけては、採取の要領を教え観察力を養う指導をした。
 1861文久元年、マクシモヴィッチと須川はセントルイス号に便乗、横浜へ向かった。 1862文久2年、長崎に上陸。二人はここを根拠地として九州各地で植物採取を行い、多数の標本を携えて横浜に戻った。
 1864元治元年、マクシモビッチは来日3年目、帰国の途についた。この秋、長之助も4年半ぶりに帰郷。 
Photo_4
 マクシモビッチは帰国後もずっと東アジアの植物を研究し続け、長之助に採集を依頼、長之助は採ったのを押し葉にする作業を続けた。全国各地で採集された標本は、東京神田駿河台ニコライ堂のアナトリイ神父を通し、マクシモヴィッチに送り届けられた。

 植物採集を始めた当時はまだ鎖国攘夷論が盛んで、外国人は危険な目にあうから植物採集など思いもよらず、長之助の協力無しに採集は進まなかった。
 長之助はマクシモビッチのために挟み板、挟み紙を携えた異装で単身全国を踏破した。その足跡を残した山岳は、北は北海道から岩手山・早池峰山・信州駒ヶ岳・三吉山・乗鞍山・伯州の大山・九州の霧島・阿蘇山から南は桜島まで及んだ。

 マクシモビッチは高名な学者であったから往来手形など便宜が図られていたようだが、交通がまだ発達していない時代、しかも外人の従僕として、長之助はロシアの間諜に間違われたり苦労があった。
 信州木曾の御料林の檜の皮を剥いて役人に3週間も抑留され、御山奉行の力でやっと放免、肥前の大村から長崎に越える時は雲助数人に追いかけられたなどなど。しかし須川はやり遂げた。
 
 1877明治10年、長之助はかつて岩手県紫波郡日詰町の郡山駅にあった郡山教会で、アナトリイ神父から洗礼、ダニエルの聖名をうけ、日本ハリストス正教会信者となった。

 1889明治22年、長之助は越中の立山に登った時、濃霧に襲われ暴雨風となって道を失い、山頂の社屋でなんとか寒さをしのぎ辛うじて凍死を免れた。
 1890明治23年、南部地方を中心に鳥海山に向かったが、降雪に阻まれ本荘、角館を経て帰宅。
Photo
 1891明治24年、 マキシモビッチ永眠。マクシモビッチと須川長之助、二人の関係は、単なる雇用関係でなく、厚い信頼と友情で結ばれていた。マクシモビッチも長之助の苦労に報いるかたちで、多くの日本産植物の学名にTschonoskiの種小名を残している。
 これ以降、長之助は植物標本の採集旅行に出掛ける事はなくなり、農業に専念。
 1925大正14年2月24日、長之助は風邪から肺炎になり昏睡状態に陥り、眠るように死去、行年84歳であった。

 死後、日露文化交流に貢献した功績を顕彰する「須川長之助翁寿碑」が志和稲荷神社境内に建立された。のち 紫波町名誉町民。
 長之助の採集標本が岩手大学にあり、そのいきさつが論文「須川長之助翁と岩手大学」にあり、他にも参考になった。マクシモヴィッチと須川長之助の写真はここから。興味のある方はネットでどうぞ、アドレスは下記。

 参考: 
箱館中央図書館「はこだて人物誌」
(http://www.lib-hkd.jp/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/sugawa_tyou.htm ) 

 「須川長之助翁と岩手大学」岩手大学ミュージアム・須田裕 
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1858/3/tyounosuke-iwateuniv.pdf

|

« 愛の林檎/蕃茄(あかなす・トマト) | トップページ | 障害者スポーツ&金メダリスト成田真由美(神奈川県) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: チョウノスケソウ、幕末の植物採集・須川長之助(岩手県):

« 愛の林檎/蕃茄(あかなす・トマト) | トップページ | 障害者スポーツ&金メダリスト成田真由美(神奈川県) »