国語辞典の基礎をつくった『言海』大槻文彦
このブログを読んでくださる方はきっと言葉のあれこれが好き、お気に入りの国語辞書をお持ちでしょう。筆者は二十歳記念に買った『広辞苑』と他にも使っているが、どれも古くなった。言葉は生き物、変化するし改訂版が出ているけど買換えてない。近ごろは電子辞書が普及、持ってはいるが紙の方がいい。
点訳をしていたとき先輩に「点訳する原本の出版年と同時代の辞書がいい」と言われた。なるほど納得で辞書は新旧とも大切と思ったが、辞書そのものには無関心だった。
ところが“為になっておもしろい”『辞書とことば』(惣郷正明・南雲堂)に出会い、辞書ってこんなにも違うんだと興味がわいた。
『辞書とことば』は、考えだすとやっかいな言葉についてや調べ方を、たくさんの辞書から引用して説明、解りやすくておもしろい。さっそくブログにと思ったが内容がありすぎて、抜粋とか抄訳といった半端ができない。そこで、<国語辞書の誕生『言海』>の大槻文彦をみてみることにした。
大槻文彦 1847弘化4~1928昭和3年。
明治・大正期の国語学者、号を復軒。
祖父は蘭学者の大槻玄沢(磐水)、父は洋学者の大槻盤渓、兄は学者の大槻如電。江戸生れ。
岩手県教育会盛岡支部会の冊子には、1847弘化4年11月西磐井郡中里村に生れとある。
江戸に出て漢学を学ぶ
開成学校(大学南校、東大の前身)で学び、同時にアメリカ人に英語を学んだ。卒業後、東京高等師範学校などで国語学を講義した。
1873明治6年、宮城県師範学の創立ともに校長に就任、祖先の地、宮城に赴いた。
1875明治8年、文部相・報告課勤務、日本辞書編輯の命を受け、ここから『言海』との苦闘がはじまった。
文部相の国家的事業として発足した『言海』だが、草稿の完成後は文部相の倉庫で埃をかぶり、出版の見込はなかった。
この間1878明治11年、大槻は文法会を興し「かなのかい」に参加、かな文字の普及に力をつくしたことでも知られる。
大槻文彦は陽の目を見ない「言海」の原稿の引渡しを受け、自費で出版することにした。
―――この一大事業を為し遂げるまで、編修の苦心もさることながら、校正者の死去、自宅の類焼、妻子の病死など不幸があった。倦まずたゆまず努力して完成させた『言海』は我が国の国語辞典の元祖であり、権威である(岩手県教育会盛岡支部会)。
次は、完成まで17年もかかった『言海』跋文の一部、
―――筆とりて机に臨めども、いたづらに望洋の歎をおこすのみ、言葉の海のただなかに*梶緒絶えて、いづこをはかとさだめかね、その遠く広く深きにあきれて、おのが学びの浅きを恥ぢ責むるのみなりき
*梶緒: かじお。舵を船にとりつける縄
1891明治24年、原稿が膨大なため分冊で予約を始めたが、学者の大槻にとっては編集より何倍もの心労であった。ともかく和綴じの分冊本『言海』(のち洋装本の一冊に)がようやく完結、世間から絶賛されやっと苦労が報われた。
1898明治31年、『広日本文典』出版。当時としては最も優れた中古文典といわれ、文法の基礎をつくった。この中古時代とは、桓武天皇より院政の始まるまで。
1899明治32年、文学博士となる。
文部省国語調査会設置。委員長・前島密、大槻文彦ほか委員7名で口語法制定を目指した。のち、大槻が起草し口語法一巻刊行、口語法の基準となった。
―――収めてある語彙はさまで多くないのと時世の進運とはこれが改訂を促すこととなり、十閲年にして阿加佐(ア・カ・サ)三行を了えた頃病にかかり、1928昭和3年没した。
増訂版『大言海』は、関根正直・新村出両博士監修の下に、1932昭和7年第1巻を刊行、1935昭和10年全4巻を刊行(『国語史』1942福井久蔵)。
こぼれ話
☆大槻が死去した年、彼がもっとも愛護していた松の木が枯死し、人々から奇しき因縁といわれた。
☆<混説せられた『大言海』のダルマサウ>
―――ダルマソウ(達磨草)とよぶ植物に二種あつて、一つはキク科のダルマソウ(達磨菊)、一つはサトイモ科のダルマソウ(ザゼンソウ)・・・・・・大槻文彦博士は混説してゐられるが、二種に分かつべきものである。かくも『大言海』に関しては、書中の諸処に誤謬が鮮なくないのが事実である。好辞典誠に可惜哉である(『牧野植物随筆』)。
植物学者・牧野富太郎はこのように『大言海』を批判するが、『国語史』によれば、大槻は「一人でその大業を完成されようとしたので、語源なども改訂を加うべきものがないでもない」のである。
☆ 大槻文彦はかつて根岸沿革地図の編纂に従事してい、除夜の鐘も鳴ろうという大晦日の多忙の折しも*益田克徳を訪ねた。益田が苛立って「今時分、何の用かね」というと微笑して「将軍塚の所在だ、探してみたが分かりかねるから君に聞いてみようと」言う。益田は呆然、「ソンナ事を知るものか」
*益田克徳: 三井物産社長・益田孝の弟。"茶"を愛した。
☆ 明治44年、『光悦談叢』著者・森田清之助が根岸「御行の松」辺の大槻邸を訪ねると、大槻は白頭長身、神経過敏ならざる好老士、古代の人はかくやと思ふばかり。応接振りは、極めて素朴誠実であつた。
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