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2014年9月 6日 (土)

130年前の漁業者表彰(牡鹿郡・気仙郡)

 はや9月、図書館カードを首から提げて小道を歩いていたら、かすかに良い匂い。辺りを見回すと金木犀ならぬ銀木犀が咲いていた。キンモクセイのオレンジ色と違って白い花は地味で香りがないと気付かない。こじつけのようだが、人の歴史、業績も同様かと。記録がなければ埋もれてしまう。
 そこへいくと東洋文庫は埋もれそうな過去を遺してくれている気がする。この文庫には東洋こと広いアジアはもちろん、日本の地方文化、産業なども収められている。たとえば、『大日本産業事蹟』(上・下、大林雅也編著・平凡社)には、記録が残されにくい農業や漁業などさまざま記述がある。何か参考になるかも知れない。項目をあげておく。
 各項の説明は短いが、纏めるには時間のかかる調査と史料が必要。価値があってもベストセラーを予測できそうもない地味な仕事。著者はどのような人物だろうと気になったら、巻末に略歴と解説があった。それに基づき、著者と岩手・宮城県水産業の一端をあげてみる。 

 勧農殖産、開拓疎水、穀菽(コクシュク、穀物・大豆)、蔬蓏(ソラ、野菜・果実)、果樹、各様草属植物、各様樹属植物、甘蔗糖、茶、養蚕製糸、林業および林産物、運輸交通、漁猟、漁具、捕鯨、採藻、河沼漁、業業参考、海産製品、製塩、織物、陶磁器、磁器、各種工芸、抄紙、製油、醸造、食料製品、鉱業、雑事
(1988『大日本産業事蹟』第一編~第四編)。
 
【漁猟】 <陸前国気仙郡 鮪(まぐろ)漁業者の事蹟

 陸前国吉浜村故・新沼武左衛門なる者は、従来地方に秋鮪漁業のなきを痛歎し、歳月辛苦を積み、ついに一種の*建網(たてあみ)を工夫し、これを浜海の各所に試設し、新たに漁利の多きをいたし、公益を後人に伝え、以て1885明治18年4月 宮城県下本吉郡、牡鹿郡、桃生郡、岩手県下気仙郡、南閉伊郡、連合水産共進会より特にその功労を追賞する所ありし。

  *気仙郡: 1869明治2年9月、江刺県に属し、同4年11月、一ノ関県に属し、同9年4月、宮城県に属し、同年5月、岩手県に属せり(『岩手県史談』1899志村義玄)。
  *建網: 魚群の通路に設置し、魚群を導き入れて捕らえるもの。定置漁業の大部分はこれをもって行われる(『広辞苑』)。

【海産製品】 <陸前牡鹿郡 鮪節製造の起源

 陸前国牡鹿郡十八成浜 遠藤金兵衛なる者は幼児より漁業に従事し、かねて魚商を営み、しばしば豆、相二国(伊豆・相模)の間を経歴し、たまたま小鮪を節に製するの実況を目撃し、深く感ずる所ありて、その製法を習練して居村に鮪節の製造を創む。
 漸次販路を拡張し、製額を増し、特産となし、海浜漁民の福利を増すに至り、その功績大なるを以て、明治18年4月 宮城県本吉郡牡鹿郡桃生郡岩手県下気仙郡南閉伊郡連合水産共進会においてこれを嘉賞する所あり。

         大林雅也Photo
 
 1866慶應2~1927昭和12年
          東京府士族
 1887明治20年8月、東京農林学校農学本科を卒業、農学士、22歳。三重県尋常中学校に教諭として赴任するも間もなく辞職、東京に戻り、農商務省に入る。

 1888明治21年、このころ農商務省技手見習、農務局蚕糸課に所属、月給30円。
大林は蚕糸部に配属され、主に海外実況の調査を担当。
 1889明治22年、あちこちの地方に出張、「農工商臨時調査」にあたった。
 1890明治23年には三重県に出張、巡回調査にあたり、県知事部長らと面会、乳牛場、養豚場など見学、県議会の傍聴もした。

 明治政府は、維新このかた欧米制度・技術の導入に全力をあげていたが欧化方針の反省が生じる。大林は上司・前田正名のもと調査に従事したことにより、在来産業に強い関心をもち、『大日本産業事蹟』を著すにいたった。東京農林学校卒業から4年後のことである。この書で、

わが国在来産業の起源と発展の過程を、創業者らの事蹟をもとに明らかにしようとした」のである。

 1892明治25年、農商務省技師に昇任。
 1894明治27年、大日本農会・全国農事大会に出席。
 1896明治29年、農商務省産業講習所、このとき新設の西ヶ原、農務局製茶試験所の主任技師として製茶試験などを担当。
 当時、農商務省には官僚体制が整備され、本省にいることなく地方に調査に赴く環境は失われた。これ以後、大林は1906明治39年までもっぱら茶業専門技術官僚の道を歩むことになる。
 1907明治40年、招かれて静岡県農事試験場茶業部(牧ノ原)に赴任。
 1911明治44年、茶業組合中央会議所(東京京橋区)の嘱託技師となり、かつての住居(駒込)に戻る。この時をもって、官吏生活を終え、茶業組合の嘱託技師、特別議員として、1924大正13年まで、製茶技術の改良普及につとめる。
 1927昭和2年、大林は生涯ほとんどを東京で過ごしたが、千葉県船橋に転居後、心臓麻痺で死去。61歳。

 「一人の専門的農業技術者が、若い頃、『大日本産業事蹟』という一冊の編著をまとめたことを大事に思う」(丹羽邦男、解題)。

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  【けやきメモ no.3】
  遠い復興  “戻らぬ港 細る漁業”
 宮城県石巻市雄勝町の北東部に位置する荒(アラ)漁港。岸壁の半分は崩れ落ち、コンクリートのがれきは放置されたまま。漁船は1隻も係留されていない。「目の前に漁場があるのに、自分の漁港から船が出せない。本当に歯がゆい」荒地区の漁師は憤る。
 復興工事を何度か発注したが応じる企業がないのだという。東京オリンピック、復興需要による人手不足も原因のようだ。津波で壊れたまま、手つかずの荒漁港の写真がすさまじい。東日本震災から3年半すぎたのに、ほんとうに復興は遠い。何も出来ないので、せめてこの記事を紹介したい。
(毎日新聞2014.9.7「遠い復興・雄勝」)

 

 

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