生活綴り方、村山俊太郎(福島県/山形県)
地下鉄のとある駅、制服の中学生一団が乗ってきた。男子ばかり、騒がしいと思いきや静か。皆すぐにゲームを始め小さな画面に集中、見渡せば大人もスマホを見入ってる。珍しくもない光景だが、ゲームができず、興味もないおばさんは余計な心配してしまう。インターネットが当たり前の十代は、ナマの現実にどう向き合ってる?
友達いなくても一人遊びでき、情報が溢れている現代。今どきの教育者は大変そう。情報有りすぎの分、悩みいろいろ、つまずきやすいかも。転んで傷ついてもメール、ラインでうったえ、紙には書かなそう。だいたい、日記とか作文、授業に採り入れられてるのかな。
孫息子、一人は作文が得意で一人は苦手、三行で終わっちゃう。まあこんなに短くなくても作文苦手は多い。でも、作文、綴り方の歴史を知れば、自由に書けるっていい、それができる社会が良いと感じ、面倒がらずに書こうと思うかもしれない。
戦前、生徒の貧しい生活環境を思いやり、生きていく力を身につけさせようという運動を起こし、作文で実践した教師がいた。「山びこ学校」「綴方生活」などで、そこに至るまでと、実践した村山俊太郎をみてみる。
1872明治5年、学制がしかれたころの作文は、模範的短文を応用した作文が指導された。
明治20年代(1887~)には、漢文調や擬古文調の美辞麗句を暗誦、綴り合わせる形式主義の作文が展開された。この傾向は、長く明治期をおおっていた。
そういえば、明治人や著作を探しているとき“美文”の参考の類をよく見かけた。近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ 「美文」で検索すると185冊、同じ趣旨で文字を換えればもっとあるだろう。美文は文学芸術に関係ない人にも必要だったよう。
日露戦争後、一時的に自由発表の主張がおこったが、大勢は以前として、課題作を主にしての漢文調の議論文、記事文、説明文、書簡文などが、範例によって指導された。
1900明治33年、小学校令改正によって、作文は綴方となり国語科に位置し、読方、書方とならんだが、自由で個性的な表現はみられなかった。
明治40年代(1907~)に入って、文壇の自然主義思潮の影響を受け、写生主義綴り方が増してきた。
大正時代(1912~)になると、自由主義教育の台頭で課題作でなく、自由選題となり、児童性を尊重、綴り方に童心を反映させるようになった。鈴木三重吉主宰の雑誌『赤い鳥』がよく知られる。
『赤い鳥』の綴り方は、文芸的リアリズムを助長し、現実生活を具体的に表現するようになった。この発展として<生活綴方>が起こり、綴り方の生活的・人生的意義が強調されるようになった。
(「作文教育/滑川道夫『世界大百科事典』平凡社)
村山俊太郎
1905明治38~1948昭和23年。福島県に生まれる。
戦前の生活綴方運動のなかで、生活綴方教育全般にわたる理論化においてきわだった業績をのこした。大正から昭和初期、小学校教師のかたわら童謡の創作にうちこみ、そこから生活綴方運動に参加していった。
昼の三日月
月夜のひめさん 忘れたか
波間に浮いている 銀のくし。
きらきら波間に 浮き沈み
小櫛は流れて 行きました。 (以下略)
水に映った三日月は銀の櫛、きれいな情景が浮かぶ童謡詩、作者は村山俊太郎である。彼は貧しい農家に育ち、借金を抱えて生活していたが、
「こうした環境にあって、すべてを美しく眺め、借金の累積に悩む自分の家すら頭にはなく、芸術至上の夢に酔い、文学を読み、詩歌創作に耽った」。このような時代があったのである。
1928昭和3年、山形師範学校を卒業。教壇に立って教え子をよく見ると、農家、日雇い、女工、職工、商業、植木職、事務、大工など、さまざまな家から通っている子らの現実に、それまでの自分の子ども観と大きくかけ離れていることに気付かされる。
1929昭和4年『綴方生活』が創刊され、12月に新興綴方講習会が開かれると参加。その会で村山は「綴方生活に*自照文を」を発表、非常にきびしい批判を受け、生活詩への転換にむかうことになった。
*自照:自分自身に対する反省、観察
―――子どもたちの生活を見れば見るほど、貧乏と苦悩の現実でしかない。現実を書かせればいいというものではない。そこからどういう見通しを子どもたちに与えていくのか、どういう生き方を追求させていくのかという、あるがままの現実からあるべき現実を子どもたちに探求させていく生活表現こそ、自分たちの本当に求めるリアリズムの道だ。
(『生活綴方実践論』*村山士郎・青木教育叢書)。
*村山士郎: 村山俊太郎の子息、教育学博士
1930年代(昭和5~)に入ると、東北地方6県の生活綴り方の実践家たちを結んだ北方性教育運動が本格的に進められる。封建制を残した東北農村の社会的科学的分析にもとづいた北方性教育論の理論化につとめた。
村山はこうした運動の一方、軍国主義の時代にあって非合法の教育労働運動にも参加、検挙されて免職。一時『日刊山形』の記者となった。
1937昭和12年復職。この間、雑誌『綴方生活』同人として、リアリズム綴方論を展開。
1940昭和15年、村山をはじめ北方教育関係者の検挙が続き、戦時下、生活綴方運動関係者に加えられた弾圧の嚆矢とされる。
戦後初期に共産党に入党、ふたたび教育労働運動に尽力したが、獄中で熾烈なとり調べを受けて害した健康はもとに戻らなかった。
1948昭和23年、43歳の若さで死去((船橋一男)。
(『民間学事典』1997三省堂)
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草刈り
高一女子
山のように高く生えたこの草
今から刈るのだ
牛の一番大好きな草
野原一めんに生えた草は
この鋭い鎌で刈り取ってやるのだ
こおろぎ、鈴虫は草やぶから飛び立つ
それでもなお私はこの草を刈り取るのだ
一本でも残すものか
手からは血がだらだらと流れ落ちる
血に染まったこの指で草を刈り取るのだ
雨はやっぱりやまぬのか
笠にぽとりぽとりと音をさせている
この向こうの野原にも
女がひとり、笠をかぶって刈っている
私もやっぱり雨にぬれながら
この山のように高く生えた草をかるのだ
『生活綴方実践論』には、生活綴り方の教育指導をする教師たちが指導した詩が載ってい、「草刈り」はその一編である。掲載された詩のどれを読んでも、貧しくて厳しい環境にある子どもたちの姿があり、子どもたちに生きる力を与えたいという、教師たちの思いが目に見えるよう。それにひきかえ現代は、子どもの労働を見なくなった。しかし、貧しさが消えたとは思えず、考えると難しい。
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