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2014年10月11日 (土)

星松三郎とその夫人(宮城・高知)

  『名士名家の夫人』この本は女性の手腕、能力を誉めているわりに、幾人かは○○夫人、△△の娘としか書かれてない。「家の制度」が当り前の時代、女性は活躍してもフルネームでなく、××の妻、○△長女などと表記されることが多かった。お家大事だったのだ。
 しかし今、「家」どころか「墓」さえ棄てられている。“あいつぐ墓の大量投棄”がNHKで放送されていた。すし詰めに立ち並ぶ数え切れない廃墓石、家の制度が壊れていくスピードが目に見えるようだ。少子化の現代、この先が思いやられる。
 ところで、すぐに答えがでない問題はおいといて、家が尊ばれ、家父長が巾をきかせていた時代でも、仕事と家庭を両立、夫に大事にされた星夫人のような女性もいた。

Photo_3 国会議員の夫が子どもの面倒を見、妻の仕事を応援、ホテルのパーティでは人目を気にすることなく妻に飲み物を運んだりとやさしい。今では珍しくない夫婦だが、明治期には笑われたらしい。何しろ次の引用文、お終いは「呵々」。わざわざ、呵々大笑の“呵々”大笑いを附け加えているのは編著者の嫌み、それとも世間一般の風潮?

   <星松三郎と其夫人
 ――― 星松三郎君の細君は、東京女学校の教師にして頗る秀才の聞こえあり。校内における生徒間の評判もよろしき方なり。
 居常内政の術に巧にして、又君に仕えて頗る親し。君に帰してより以来幾人の子女を挙げられしが、その教薫は皆、夫君一人にて所弁し居り、夫人には毫も内顧の憂いを致さする事なしと。而して夫人には専ら教鞭に力を尽くさせつつあり、君は元来細君には親切の方にしてなかなか注意周到なり。
 去る一昨年の天長節の折等は、君夫人と共に帝国ホテルの夜会に出席せしが、君は頻りと細君の処に種々の品物を持ち運びつつありしとか、人の妻となってもかく親切にせらるは実に幸福なる次第なり。これ即ち君が夫人の徳高きの故ならんか、呵々。
      (『名士名家の夫人』須藤愛司1902大学館)


           星 常子

 高知県土佐生まれ。片岡常子。女子教育家。
 17歳で高知女子師範学校入学。1884明治17年、東京女子師範学校(のち高等師範学校)入学。1886明治19年、高等師範女子部にすすむ。
    “学生時代のエピソード”
 校長の川上彦治は女子も男子も同様に扱う主義で、女子も雪の降る時でも立たされた。同級生13人中に教育家・社会事業家の野口幽香がいる。女子学生の髪形は銀杏髷か唐人髷だったが、生徒同志で結い合うので書生風になり生意気に見えたらしい。舎監から島田髷にするようにと注意されたことも。
 舎監中に、会津の山川浩・健治郞兄弟の姉、山川二葉もいた。
 金曜日毎に夜会があり、西洋人や貴族を招待して、夜中までピアノの伴奏で踊った。
Photo_4
 1890明治23年卒業。東京府立第二高等女学校の教師、献身的で勤勉と評判だった。
 1896明治29年6月15日明治三陸地震津波に義援金。横浜毎日新聞記事によると、常子も長女愛子も各1円を寄付。
 1903明治36年『家事教程』(星常子・中島與志子共著1903東京六盟館)上下2巻出版。内容は、衣食住・看護・伝染病の予防消毒・育児・教育・養老・家計・経済など。 
 
    “明治35年頃、常子談
 現時の学制と当時の学生を比較すると、華美に流れ勉強に熱心でないようです。
 もし、今日社会でいうように、堕落した生徒があるとしたら、その罪は家庭にあるのではないか。また女学生の堕落が事実とすれば、まづ男子の方に改良すべき点が多いでしょう。女子はどうしても男子の嗜好に伴うものでして・・・・・・
 性格は、小さい時に父母に死なれ家庭の味を知らないせいか、物事に冷淡だとよく人に言われます。理科と数学が好きで文学などに興味がなく、理性に優れてるのは悪くないが、女には感情に美しいところが無くてはならぬと注意されたことがあります。

 (片岡)常子は家庭を持つまでは土佐の同郷、谷干城子爵家に世話になっていた。星の前妻が死去したあと再婚。夫が病没(時期不詳)したあと、小学生の長男を頭に5人の子を育て上げた。
   写真:『名士名家の夫人』中島益吉編1907読売新聞社より。学生時代と後年。 

       星 松三郎
1856安政3年5月~?
 陸前登米郡佐沼町の呉服商・島屋松治郎の第七子。英語と漢学を学ぶ。
 1870明治3年、佐沼で設立された公愛会の通信員としてしばしば上京しては大隈重信と面談、自由民権を唱えるようになる。
 1875明治8年、故郷が水害に遭うと家産をつぎ込み窮民救恤にあたった。勧業世話役、衛生委員、学校世話役など公共事業に力を入れ、出費もした。
 1877明治10年、西南戦争に際し、木綿百反を陸軍省に献納。
 1881明治14年、北海道に渡り300万坪の原野を開拓、経営。政変で大隈が下野、改進党を組織すると積極的に参加、評議員となったが、後に意見が合わず袂を分かつ。
 1882明治15年東京市芝区伊皿子に居住し呉服店の支店を横山町と弥生町に開く。
 明治17~19年の間、前後二回、日本全国を周遊して民情、経済を観察。これを編集発行し内閣に提出、民間に頒布した。
 1885明治18年、東京市芝区市会議員に当選、以来8年間つとめる。 
 1886明治19年、ヨーロッパに渡り、政治経済を学ぶかたわら代議政体の運用を研究して明治21年帰国。翌年、芝区より東京市会議員に。以来、数々の公職を歴任。

 一家一門は松三郎の政治参加に反対するも第一回総選挙に宮城四区から出馬、落選
 1898明治31年8月、臨時総選挙に東京府第二区から出馬し当選。商人出身の政治家として経済政策をとった。     (『立身致富信用公録』1902国鏡社編)

 実業界においても、品川電灯株式会社専務取締役その他、帝国水産、日本織物、山本セメント、宮城商業銀行などの重役。公共事業で何度も銀盃や褒賞を受けた。
 仙台東7番町、石巻鰐山に別荘を設けて交遊の地とした。
    (『宮城県国会議員候補者列伝』藻塩舎主人1890晩成書屋ほか)

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