ああ小野訓導、小野さつき(宮城県)
毎日新聞<道徳を「特別教科」16年度にも検定教科書導入>2014.10.22
「教材は検定教科書が適当としながらも、郷土資料など地域による多様な教材の併用を求め」があった。道徳というと身構えてしまうが、地域を知るのはいいと思う。
郷土の誇りを記すとなれば、優れた業績やいい話に偏りそうだが、書き残さないと。埋もれてしまえば無かった事に。それに物事が盛んになると批判や反対が出、これはこれで残り、偏りがいくらかは少なくなるかも。
ところで、道徳修身を指導したのは小中学校の先生、訓導である。訓導は1873明治6年から戦後の教育改革にいたる小学校の正規の職名で、戦前の修身の教科書には「殉難の訓導」が載っている。
たとえば、関東大震災に遭い御真影を死守した先生、身を犠牲にして生徒を救った先生。その「殉難訓導」で最も有名なのが小野さつき訓導。
小野さつき
1901明治34年6月14日、宮城県刈田郡福岡村、小野政治の次女として生れる。
7歳で中岡小学校入学、3年のとき福岡小学校と合併し通学に往復一里、冬場は大変だった。
1916大正5年、地元の白石町立実科高等女学校入学、同7年卒業
1918大正7年、宮城県女子師範学校入学。官費生で寄宿舎にはいる。得意は裁縫・図画・数学で体操は水泳ほか運動助手をした。
1922大正11年 卒業。
3月31日、志望により刈田郡宮尋常小学校訓導を拝命。九級下俸四〇円。学校職員は男子8、女子5名。学校の近くに間借りして自炊。受持児童は66名。
初給料でビスケットを買い在学中着ていた筒袖で母校を訪ねた。化粧もせず、同窓会へも筒袖で出席するなど驚くべき質素の人。性格は表裏がなくサッパリ、しっかり者で同窓生から頼りにされた。
愛読書は、教育書のほかに*厨川白村著『象牙の塔』、雑誌『思想』『婦人公論』。
7月6日、皇太子が北海道巡啓のため白石駅と北白川駅の間を通過する際、児童を引率して奉迎した。そのときいい景色をみて写生の授業を思いついたという。
厨川白村: 英文学者。東大でラフカディオハーン(小泉八雲)に学び、幅広い分野で活動。
“ああ小野訓導”
7月7日、5時限目の図画の授業は写生にして野外へ。受持の4学年男女56名を引率、昼12時45分学校を出発、白石河畔に向かった。
ちなみに鉄道は白石川に沿い、日露戦争の時、戦地に赴く兵士たちの汽車が通ると、村人は川岸に並んで小旗をふって万歳を叫びながら見送った。それで白石川を万歳川とも。
写生に出た日はとても暑かった。生徒が泳ぎたいとせがむので、さつきはやむを得ず許可、危ない所に行かないよう注意を与えた。子らは膝くらいの浅瀬で遊んでいたが、3人が裸になって水中に飛び込んだ。対岸に泳ぎ渡ろうとしたが危険な場所にはまってしまった。さつきは助けを求める児童に気付くと、着衣のまま川に飛び込み2名を助けた。もう一人助けようとするのを児童らがしがみついて引き留めるが、それを振り切り、再び川に飛び込んだ。溺れる男児に近付くと絡みついてきた。そのため思うように動けず、二人はそのまま渦に巻き込まれ、流されてしまった。
悪い事に事故が起きた時、昼食後の午休み。畑に農夫はいず、川で漁をする者もいなかった。助けてくれる大人が近くにいなかった。子どもたちが泣き叫びながら助けを求め、捜索の人々が多勢駆けつけたが、間に合わなかった。
川岸に横たえられた22歳の女子と13歳の男児、二人の遺骸を前に数百の村人が涙した。天の川で男女が邂逅すると伝えられる7月7日七夕の日に若い娘が命を落とすとは。
7月14日、宮小学校において村葬。各界から弔辞、弔歌、弔、弔電が寄せられた。
故小野訓導を葬る日
(棺につながる)縁の綱を握る故小野女史生前の教え子
弔旗は風に翻り三千余名の会衆皆泣く
ああ永久に鎮む妙操大姉の霊
小野さつき死後、数々の表彰があった。
鎌田栄吉・文部大臣、力石雄一郎・宮城県知事、佐藤静治・刈田郡長、沢柳政太郎・国民教育奨励会長、徳川達孝・日本弘道会会長。
社会の反響は大きく、各新聞は事蹟を伝え、殉職訓導小野さつき女史を賛美してやまない。映画が製作され東京本郷座で舞台にもなった。これら賛美一辺倒の世間だったが、次のような冷めた目もあった。
<小野訓導の死> 『真実の鞭』より
世人は挙って女子の殉難を美しい死として悼んでゐたが、私には単にそれだけで、女史の死を葬ることはできなかった・・・・・・ 考うるにあの場合、女史の心頭には咄嗟にあらゆる責任感が一時に激発されたのではなかったか・・・・・・ 私は深い痛ましさ憐れさを、女子の死に認めずにはゐられない気がする。
若し此処に女子が二人目を救助しただけに止めて、存命してゐたならば、どういう結果になったか、それを見ると慄然とするものがあったからだった・・・・・・ 自分の力で能う限りの事はし尽くしていた。
しかし存命してゐたとすると、飽くまで女史は最後の一人を見殺しにした事になるのであった・・・・・・ 女史は一人自分ばかりでなく、学校名を傷つけ、その父兄の怨嗟を買ったに違いなかったと思う。此の死の一線前の女史の世界は、実に冷酷な惨しいものでなければならなかった・・・・・・
賛美する世間こそ、死に駈けらしめた軽浮な一面を持っている・・・・・・酸鼻な死! 私はそれを女史の死に感ずる。あの事件の顛末を探れば探るほど、自ら死について行ったような女史の殉難を、こうした世間の前に私は悲しく思う。
参考: 『噫故小野訓導』1922刈田郡教育会/ 『烈婦小野訓導』1922中田武雄/ 『殉職訓導小野さつき女子』1922宮城県教育会/ 『真実の鞭』鷹野つぎ子1923二松堂書店
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コメント
コメント無記名様へ
記事に関心持ってくださりありがとうございます。
残念ながら記事にある以上のことは判りません。もし、宮城県にお住まいでしたら、図書館や教育委員会に問合せてみては如何でしょうか。 又は、宮城県の郷土資料館のようなHPをごらんになれば、判るかも。どうぞ、お勉強がんばってください。
投稿: けやき | 2016年1月12日 (火) 20時30分
初めまして。
今回、小野さつき先生のことを知ったのは
つい、最近
小野さつき先生の事を色々と勉強したいと思います
記念館はありますか?
投稿: | 2016年1月12日 (火) 15時03分