会津富士、磐梯山の大噴火
近ごろ天候が変だ。雨の降り方も半端でなく災害をもたらしている。何か不安ただよう秋だが、御嶽山の紅葉は青空に映え人をひきつける。2014年9月27日も上天気、多くの登山客が御嶽山の頂上めざした。と、突然、噴火がはじまった。立ちのぼる噴煙、降りそそぐ火山灰や石。戦後最悪の大惨事となった噴火、負傷者ばかりか死者も多くでて恐ろしい。山は無惨に灰に埋もれ、多くの人が命がけで救助にあたっている。麓で無事を祈りつつ見守る家族、友人たちが傷ましい。日本には火山が多いと改めて思い知らされた。つい忘れがちだが、噴火の記録を目にすることが少なくない。
1888明治21年7月15日
午前7時半頃、大音響とともに磐梯山は火柱を噴きあげた。鳴動と地震は2時間にわたり、山頂は吹き飛んだ。天から石と灰が降りそそぎ、泥流は時速77キロのスピードで北川山麓を襲い集落を呑み込んだ。死者は463人(角川『日本史辞典』)。
<救難救助の図>宮城県士族・雲野香右衛門
――― 会津人は維新の際の戦争をこの上なき恐ろしき事と記憶し孫の末々まで伝うべしと考えしが、この噴火事変に遭い、ああ今度この変に比すれば会津戦争なんど丸で盆踊りくらいと評せし由、是にてもその惨状を推察せられぬ
(『磐梯山大変録:密画挿入』明治21.7.30)
<磐梯山噴火、山頂吹っ飛ぶ>明治21.7.17 東京日日新聞
大噴火、岩瀬村全村埋没――― ある電報に磐梯山噴火、岩瀬村の内およそ56戸潰れたり、噴火なお止まずとありし由。また一報に同山の噴火は六里四方に災害を及ぼし、埋死およそ四百人ほどあり(内十五人浴客なり)。埋没戸数三十ほど、*ヒバラ全村は大川噴出の土に埋もれ、ほとんど沼とならんとす。鳴動なおやまずと見えたり。
*ヒバラ: 北麓の檜原川・長瀬川が泥流でせきとめられ、裏磐梯に檜原湖などたくさんの湖沼が発生した。
<二里四方の草木枯死>明治21.7.19 官報
磐梯山二里四方は噴火灰燼のため草木枯死し、かつ長瀬川流滞停して二里四方に溢る。よって直ちに同県にては防御に力を尽くせり。しかして、該山の鳴動はようやく止み、再び破裂の恐れなかるべし。
図:小磐梯旧形の図
『福島県耶麻郡磐梯山噴火詳誌』佐藤誠之助著
<猿猴、地変を告げて人名全うす>時事新報明治21.7.23
磐梯山の噴火する三、四日以前より小磐梯、大磐梯、北磐梯、櫛ヶ峯等の諸山に住める猿猴は何か事あり気に啼き叫びて実に耳噪がしき程なりしかば上の湯、中の湯、下の湯および磐梯の湯等の諸温泉に入浴し居る人々は、かくも憐れに悲しみ叫ぶは天変地異の前兆ならん、或いは同類の首領の死を悲しむものならんなどと勝手に空想・・・・・・
・・・・・・是は必ず天変地異の前兆に相違なしとて、未発の危難を思い遣りそうそう支度を調え家路をさして逃げ帰りたるに、果たして十五日の早朝無惨の凶変起こりたれば、件の逃げ帰りたる人々は、吾が命は猿の賜なり。彼なかりせば如何で我が命助かるべきと、ひたすら万死の中に一命を得たるを喜びて他人に語り居れりといふ。
<天なんぞこの村民に無情なるや>
1890明治23年国会開設の前年、東北遊説のため、谷干城、佐々友房、柴四朗らは、四朗の兄五三郎の案内で明治22年5月朝早く上野駅を出発した。
本宮という所で降りて人力車で中山道を磐梯熱海に向かった。熱海に温泉はあるが伊豆の熱海と違いひなびた村なので、その夜は猪苗代湖東岸の宿、山潟亭に泊った。
猪苗代の辺りは戊辰の戦陣があった所で往事がしのばれ、柴四朗は涙をさそわれた。佐々友房は西南の戦で西郷軍に呼応し戦い敗れた敗軍の将である。敗れた者同士、二人は杯を傾け昔を振返った。
ちなみに、谷干城は西南戦争で、政府軍として熊本城を西郷軍から死守した将軍。のち貴族院議員。
翌早朝、一行は磐梯山に上り前年に大爆発をした噴火の跡を見物した。その噴火で、戊辰戦争さなか会津に攻め寄せた谷干城が泊った檜原村、長坂村も村民を喪っている。長坂村は噴火のさい百人以上が圧死、そのうえ岩瀬川が決壊、洪水で家や田畑が流されるという惨状であった。
「天なんぞこの村民に無情なるや」
災害の大きさに誰も言葉がない。その晩ふたたび山潟亭にとまり翌朝、出迎えの人たちと会津若松に向った。途中、十六橋にさしかかり白虎隊士の死を悼んだ。
(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』)
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