北海道大学育ての親、佐藤昌介とその父、佐藤昌蔵(岩手県)
[星松三郎とその夫人」でレディファーストを実行する星を進んだ男と思ったが、明治期は笑いの種になったらしい。海外に留学または公務で出張のときは仕方がないが、帰国すれば男社会、レディファーストが何だとなる。
―――駐米公使・栗野慎一郎がアメリカから帰朝した時に、妻君が神戸で汽車に乗ろうとして、栗野に向かい「あなた手を取って頂戴な」と言った。すると栗野は「馬鹿ここを何処だと思う。日本だぞ」と叱り飛ばしたそうな(『独笑珍話』)。
「ここは日本だぞ」の話が載ってる『独笑珍話』(嬌溢生1907実業之日本)は、外交官はもとより政治家、官僚、実業人、庶民まで週刊誌的ネタが満載。「知名人で厳格なる面貌にて天下に活動している各界人の珍談、失敗」を面白おかしく描き、学者も俎上に。
―――札幌農学校(北海道大学の前身)からは随分奇傑の士が出ている。農学を修めながら丸で方角違いの職業に就いている者が大部分であるのは一奇だ。1897明治30年第一回卒業生で荒川重秀は船舶司検官から文士俳優に、第二回の内村鑑三、第四回の志賀重昂などは誰が見ても農学士に適当な仕事を遣っているとは思えない・・・・・・
第一回の卒業生佐藤昌介は札幌農学校校長を勤めているが、彼は農業経済が大得意で評判もよろしい。新渡戸稲造は第二回の卒業生じゃが、在学中も英文の達者なことは有名であった・・・・・・出身者に教育家が多いが、教科書収賄事件に関係した者は一人もない。
金や女のしくじり話や奇談が豊富な『独笑珍話』だが、前出「札幌農学校の卒業生」では真面目を評価。面白話の合間に教科書疑獄(明治35年教科書採用をめぐる贈収賄事件)をあげるなど幅広い。著者・嬌溢生はもしかして複数人か。
ともかく、卒業生中、佐藤昌介が東北出身、またその父昌蔵が一段と興味深い人物なので、佐藤父子を見てみた。
佐藤昌介
1856安政3~1939昭和14年
1856安政3年11月、陸中国稗貫郡里川口村に生る。父は佐藤昌蔵は盛岡藩士。
1863文久3年、盛岡藩・揆奮場に入り文武両道を学ぶ。父はここの学頭を勤めた。
1868慶応4年/明治元年、戊辰戦争。父は「勤王の志」抱くも藩に従い秋田を転戦。
1869明治2年、戦が終り父が藩用人となり盛岡に移転。翌年、藩の作人館で学ぶ。
1871明治4年、父に従い上京、「共慣義塾」また小笠原賢蔵に入門、英語・数学を学ぶ。
1872明治5年、横浜に行き、星亨とアメリカ人ブラウンの英学校入学。
1874明治7年、東京・外国語学校英語科に入学。
1876明治9年、卒業。札幌農学校教頭アメリカ人クラークが東京に生徒を募集しに来、これに応じて友人6人と北海道に渡り、札幌農学校に官費入学。
1877明治10年、アイヌ人の案内で生徒10人で石狩原野の地形山川の形状を見、その後も江差福山七重地方を踏査。
農学校では農学・理科などの専門学科だけでなく広範囲にわたる近代的教育、キリスト教にもとづく人格教育が行われ人材を輩出。昌介もクラークの薫陶を受け、キリスト教に入信。
1880明治13年、卒業と同時に開拓使に奉職。
1881明治14年、稲田陽子と結婚。アメリカ留学、ジョンスホプキンス大学で農業経済および農政を研究。
1886明治19年、帰国。農学校教授となる。以来、1930昭和5年の退官まで教授、学長、総長を歴任、「北大育ての親」といわれる。その佐藤昌介が、学校と離れていたのは洋行した時くらいであった。
参考:『北海道人物誌』(岡崎官次郎1893北海道人物誌編纂所)/ 『コンサイス日本人名辞典』三省堂
佐藤昌蔵
1833天保4年6月15日、稗貫郡花巻で生る。盛岡藩士。号は花巻城にちなみ十八城。
同藩の松岡圓平に入門、漢学を学ぶ。郷里花巻にいて御取次という役を務めた。
1849嘉永2年頃、盛岡藩主の廃立問題に絡み、昌蔵は硬論をとなへ罪になるところだった。藩の重臣目時は昌蔵の才幹人物を愛し、目付に抜擢、盛岡詰めにした。
1868慶応4年、奥羽列藩同盟に盛岡藩も加わるが、昌蔵は勤王論を唱えた。同盟の不可を論じ、「鎮撫総督府の命は勅命に等し、故にわが藩はよろしく九条総督の命を奉じ、同盟に抗して勤王に終始せよ。もし仙台藩攻め来たらば花巻城でこれを防ぎ、孤忠を守り南部武士の面目をたてん」と建議。
しかし藩は同盟に決し、秋田に進撃した。
戊辰戦役に失敗した盛岡藩はその善後策に窮し東次郎を挙用。東次郎は勤王の士を抜擢、昌蔵は城中勤番になり、藩主父子が東京に召還されるや勤王藩士として従った。
維新後、感ずる所あり、耕作に従事し平民籍になる。
1869明治2年、盛岡藩権少参事兼公用人として東京に駐在、同4年、廃藩置県で盛岡県がおかれ、盛岡県権典事に任用された。同5年、免官。
1874明治7年、台湾征討事件が起こると、東次郎と上海に赴き大陸方面で活躍。事件落着後も上海にいて中国の内外の事情を探った。
1875明治8年、帰国。 故郷に戻り青森県勧業課長として出仕。同10年、岩手県庁に転じ、南部利恭の新撰旅団募集に力をかした。同14年、西東磐井郡長。同18年、茨城県庁に転じ、同県下郡長などを歴任。
1889明治22年、退官して郷里に帰る。恭教社を起こし農業の振興をはかった。
1890明治23年、国会開設。岩手県より出馬し国会議員に当選し、前後10年衆議院議員として国政の場にあった。
1915大正4年11月30日、83歳没。墓は稗貫郡大田村昌歓寺にあり、碑文は子の昌介の撰、篆額は西園寺公望の書である。
参考:『岩手県国会議員候補者列伝』1890三省書店 / 『岩手県国会議員列伝』1889哲進堂 / 『興亜の礎石』1944大政翼賛会岩手支部 / 『日本帝国国会議員正伝』1890田中宋栄堂 / 『明治新立志編』1891鐘美堂
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