忘れられた図書館人、青柳文蔵(岩手県/宮城県)
筆者にとって、昔より今がいいと思うことの一つが図書館の存在。地元の図書館は、まるで自宅外の書庫のよう。大学図書館には読みたい本がたくさん、書庫に泊まりたいくらいだ。旅先の駅前図書館もいい。
だいぶ前に青森の浅虫温泉へに行った。当時、新幹線が青森直通でなく八戸で在来線乗換え、待ち時間がけっこうあり一服する夫をおいて八戸駅前の小さな図書館に入った。どのくらいたったろうか娘からメール、「父が待ちくたびれてるよ」 慌てて外に出た。メールは青森と東京を一瞬にして結ぶが、紙の本はそうはいかない。家族に言い訳してもはじまらないが、そこにしかない本や資料がある。今や蔵書検索が自宅で可能、そこにしかない一冊も判る。しかし江戸時代は難しかった。個人蔵本を閲覧するのに金が要ることもあり、貧しいと読めない。ところが困苦から身を起し図書館を開設、世に貢献した人物が東北にいた。磐井郡松川村(現岩手県一関市東山町松川)出身、青柳文蔵である。
青柳文蔵
1761宝暦11年9月25日、文蔵は仙台領奥州磐井郡松川村の小野寺三達(静幹)と妻もとの三男として生まれる。字は茂明、号は東里。
幼いころから読書を好み、少年期には『論語』や『史記』を夢中で読み、絶句を賦した(作った)。物事に動ぜず、言論を好む負けず嫌いで、論破されると「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」などと言い返していた。父はその気性を愛して医業を継がせようとした。
1776安永5年、父の三達は文蔵を同業の登米郡の名医、飯塚芳安に弟子入りさせた。あるとき文蔵は師に所得を尋ね、年間500両と聞くと、患者のために寝食を忘れて働いてもそれだけかと、勝手に弟子をやめ家に帰った。父の三達は不遜な文蔵を怒り、父母に恥をかかせたと勘当した。
1779安永8年、文蔵はわずかに300文をもって江戸に向かい、勘当が解けるまではと小野寺の姓を名乗らず、以後、父の生家の青柳を名乗る。
江戸にでた文蔵は駒込在住の井上金峨に入門するが師は貧しく文蔵を養えなかった。学問をするにも資産がないとだめだと悟った文蔵は、所得を得ようと医家、武家、商家を転々とする。
1784天明4年、師・井上金峨没。父三達没。
1800寛政12年、文蔵はこのころまで句読の私塾で子どもに読み書きを教えていた。
1802享和2年、公事師(代言人)になる。
1803享和3年頃、文蔵は市井の人々の間で暮らしていたが、ある商家が浅草の侠客に金を奪われそうになったと聞き、解決を買って出た。委託書をもって商家の代行をし脅され負傷したがひるまず解決し報酬を得た。42歳にして初めて金2朱の米を買う。
一躍、有名な公事師となった文蔵は、金融や訴状の書式にも詳しく、弱者の味方として市井の人々を助けたので頼みに来る者が多かった。文蔵は 「十余年にして多くの謝金を得るに」至り、貧者には無報酬で事に当たった。また、倹約して紙一枚も無駄にせず財を増やし書籍を買い求めた。
1810文化7年、文蔵50歳「人生百半ばにして後事を経理せずば、死生の理に達する者にあらじ」と、妻と合葬の墓を建て寺に寄進をした。妻は新倉氏、男児を生んだが6歳で夭折、のち養子を迎える。
1821文政4年、肖像画を描かせた。
1829文政12年3月、文蔵69歳。これまで蓄えた書籍を多くの人に読んでもらうため仙台藩に、書庫を作り蔵書2万巻を献じて公開することを願い出た。藩は城下の中央、百騎町の医学館の地100余坪を賜った。
はじめ、仙台藩や水戸藩の圧迫を受けたという。教育を重視し、学校や図書館建設に乗り出したからのようだ。
近世から近代への転換点にあった「青柳文庫」、仙台では藩が運営する公共図書館、江戸では私立図書館の名称となる。
1831天保2年7月、書庫の土蔵ができあがり目付二人が配され、青柳館文庫公開となった。以後、文庫は明治維新まで続けられた。
文蔵は記念碑を建てることにして、儒学者・松崎慊堂(こうどう)に碑文を依頼した。文蔵と酒を酌み交わし会談した慊堂は文蔵の志の高さに驚き、人となりにも感心、誉めている。
ちなみに、青柳館文庫の基本金は、金千両を藩に献じて、松川村に米蔵を建て、米4千石を蓄え、藩の役人により米を貸し付け、利益で文庫の修理などにあてることとした。この 青柳蔵は天保年間の恐慌の時に破壊し、文庫費用、米の貸し付けも廃された。しかし、仙台の青柳文庫は、医学館付属として藩費で明治維新の際まで持続した。
1834天保5年、天保の大飢饉。このころ文蔵、病む。
1838天保9年、文蔵は藩主に謁見、十人扶持を賜る。父の故郷、摺澤村に援助資金貸付けた。また、故郷に錦を飾り、父母の墓に詣で大法会を行った。
1839天保10年3月14日、文蔵江戸で没す。78歳。生涯すぐれた読書人であった。
この年、蛮社の獄や天保の改革があった。
明治維新後、医学館は英語学校となり青柳文庫の蔵書は散逸、宮城県立図書館に3千余巻を残すのみとなった。
参考: 『青柳文蔵翁伝 青柳館文庫所在目録』1931宮城県立図書館
『青柳文蔵とその文庫の思想像』1991岩手県当残町東山町教育委員会(編者・仙台市南部に図書館をつくる会)
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