桜井女学校と桜井ちか(東京)
<明治最初の女流作家・三宅花圃(田辺竜子)>を2014.7.12に掲載したが、そのとき花圃が桜井女学校で学んだのを記さなかった。資料がなく割愛したが、『明治時代史大辞典』(吉川弘文館)で確認できた。遅蒔きながら三宅花圃が桜井女学校で学んだことを附け加え、明治初期の女子教育の先駆けとなった学校と人物を紹介したい。
桜井 ちか
1855安政2年4月、東京日本橋、幕府関連の寺社修造などを扱う「神宝方」御用商人の平野家に生まれる。平野家はちかが生まれた頃はまだ栄えていたが、幕府崩壊とともに困窮し、少女期はとても苦労した。
1872明治5年、数えの18歳で海軍士官・桜井明悳(あきのり)と結婚。
芳英社、共立女学校などで英語を学んだ(明治4年の文部省布達によると、共立女学校は英学のみ)。
他にアメリカ人宣教師について英語を学び、やがてキリスト教に近付く。やがて洗礼を受けて信者となり、夫明悳も影響を受けて改宗する。
桜井昭悳は1845年弘化2年生まれ、伊予国喜多郡若宮村(愛媛県大洲市若宮)の神官の長男として生まれたが、神官になるのを嫌って上京。海軍を退役すると神学校で学び、日本キリスト教会の牧師となった。1883明治16年北海道で教会を設立、その函館相生教会の初代牧師となる。
1876明治9年、ちかはキリスト教主義の英女学家塾を開設した。この塾はのちに小学校・貧学校・幼稚園を付設して桜井女学校になるが、最初は男子も交えた寺子屋式の学校であった。
ちかは「良妻賢母」養成を教育の基盤におきつつ、母親が英語の素養をもつことが家庭教育において子どもに及ぼす影響の重要性をといた。
1879明治12年、男女別学が制度化される。
1880明治13年、函館に伝道に赴く夫について行くことになり、桜井女学校を矢島楫子(明治・大正期の女子教育家)に托した。そのころ学校は経営難であったようだ。
北海道に渡ったちかは、函館女子師範学校で教鞭をとる。桜井夫妻の活動は『函館市史』で垣間見える。
1884明治17年、札幌師範学校教諭。
1886明治19年、大阪の一致英和学校(現在の大阪女学院)設立に協力する。
1893明治26年、教育視察のためアメリカに三回ほど赴く。
1895明治28年、帰国後、東京本郷に全寮制の桜井女塾を開き、家庭的な寄宿舎を作り女子教育に心血を注いだ。英語を中心に教え、西洋料理なども伝授した。また西洋料理の普及につとめ、『西洋料理教科書』『楽しい我が家のお料理』など多数の料理本を出版する。
1928昭和3年12月19日、77歳の生涯を閉じた。
桜井女学校
1876明治9年、桜井ちかが開設した英女学家塾を始まりとする私立学校。明治初期、日本の女子教育に先駆的な役割をはたしたミッション系女子教育機関の一つ、現在の女子学院の前身。キリスト教主義の学校は、男子に比べて制度化が遅れている女子教育の分野に積極的に参加している。なお、桜井女学校は外国人宣教師の手によらず日本人・信徒の責任で創設・維持された。
1879明治12年、桜井女学校と改称。この年幼稚園、20年に高等科を開設し、幼児から青年にいたる一貫教育の学校として注目された。
1885明治18年刊『東京留学独案内』「桜井女学校」によれば、
―――本校ニ於ハ尋常小学科ノ他、女子成長ノ後、家政ニ必要ナル諸件ヲ教授、事物ニ注意シテ節倹ノ方法ニ実験セシム。束脩一円、月謝七〇銭、英学ヲ兼学スル者ハ一円二〇銭、寄宿月俸三円五〇銭。
高等女学校やそれに類する各種学校へ進学するには、費用を負担できる富裕層や女子の教育に熱心な進歩的な層に限られていた。
1890明治23年、新栄女学校と合併して女子学院と改称。矢島梶子(1883~1925)が初代院長となる。楫子は婦人矯風事業の先達としても知られる。
学校は女子の英語教育で名を馳せたが、和漢学にも目配りし、西洋化の退潮期にあっても、和漢をふまえたキリスト教女学を体現した学校としても注目された。
次は同年刊行『東京諸学校規則集』桜井女学校より
――― 第一部(修業年限4年)、国語・英語・聖書・修身学・和漢英文語学・歴史・博物・地理・天文・教育学・算術・代数・幾何・三角術・習字書学・唱歌・音楽・裁縫・編み物・体操
――― 第二部(修業年限2年)、英語・聖書・文学・歴史・科学・家事経済・唱歌・音楽・体操・小学教授法実習・幼稚保育法・洋式裁縫
1899明治32年、高等女学校令。高等女学校は高等普通教育を行い「良妻賢母」を育成する機関とされ、男子中学校より教育内容は低く抑えられ、大学進学は認められてない。
1915大正4年、高等女学校、大正9年に高等科を東京女子大学に統合。戦後、中高一貫の女子校となり現在に至る。
参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『東京諸学校規則集』1890成分館/ 『東京留学独案内』1885春陽堂/ 『コンサイス学習人名辞典』1992三省堂
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