柔術から柔道へ、講道館四天王
2020東京オリンピック開催が決まりよかったと思いつつも、東日本大震災の復興工事の進み具合に影響があると聞けばため息が出る。難しい問題だ。ところで、日本最初のIOC(国際オリンピック委員会)委員は嘉納治五郎、オリンピック創始者クーベルタンのすすめで就任。
1912明治45年、第5回オリンピック・ストックホルム大会に嘉納は選手2名を率い、初めて参加した。それから52年を経た1964昭和39年、柔道は東京オリンピック大会でスポーツとして種目の仲間入りした。
嘉納治五郎は明治期の教育者で、柔術諸流派(江戸時代には多くの流派が存在、呼び名も柔、柔術、体術など)を統合、体育的に構成した講道館柔道の創始者である。
嘉納の講道館、最初の門人は西郷四郎。講道館四天王の一人で、長編小説『姿三四郎』のモデルといわれる。小説は明治20年前後の世相を背景に一青年の成長を描いた柔道物語、人気をよび映画にもなった。その著者、富田常雄の父富田常次郎もまた四天王の一人。講道館四天王あとの二人は、横山作次郎と山下義韶(よしあき)である。近年、柔道のイメージは惜しいものがある。こんな時、明治の講道館四天王を思い返すのはどうだろう。
西郷四郎 (新潟県/福島県会津)
1867慶応3年、四郎は新潟県津川町の篠田家に生まれる。のち会津藩家老・西郷頼母近悳(ちかのり)の養子となるが、実子という説もある。
西郷頼母は会津藩家老。戊辰戦争が起こると「恭順するように」と進言したが、入れられなかった。しかし、西軍が白川口に迫ると、みずから会津軍の総督として戦うなど活躍した。なおまた会津若松城が囲まれたときは城外に打って出、なお抗戦。そのさい屋敷に残った西郷頼母の家族21人が自刃という悲劇がおきた。家族を喪い孤独のまま戦い続けた悲運の人、西郷頼母。維新後、一時幽閉されたが赦され、東照宮の祠官として余生を過ごした。
西郷四郎は、はじめ軍人を志したが、身長150cm、体重50kg弱という小柄のため断念。
1882明治15年、「小兵よく大兵を制す」の柔道に魅せられ講道館に入門。
必殺技“山嵐”をあみだし、小柄ながら柔術各流派の強豪を破って講道館の名を高め、嘉納治五郎の外遊中には師範代をつとめた。
四郎は、小柄な体で100kgをこす巨漢を大技・山嵐で投げ飛ばし、反対に投げられても投げられても、猫のように身をひるがえし立ち上がったと言われる。柔道には、力弱いものや体力が劣るものが強者を投げとばすという、小気味のよさをもって語られてきたところがある。
1897明治30年、講道館を去り中国大陸に渡り各地を転々とするも志を得ず帰国。
1904明治37年、日露戦争。満州で義勇軍を組織、また孫文の辛亥革命を支援した。
年不詳だが長崎に行く。福島県出身で明治・大正期のジャーナリストで天佑侠を組織した鈴木力(天眼)の『東洋日之出新聞』の経営に参加したが失敗。鈴木は西郷四郎を評して「純真の武士的志士」という。
1922大正11年、没。翌年、講道館は六段を贈った。
写真は西郷四郎。
富田常次郎 (静岡県)
1865慶応1年、静岡県で生まれる。
1882明治15年、講道館入門。得意技は“巴投げ” 同門の四天王と柔術各派をやぶり、講道館柔道の基礎を築いた。
1887明治20年、郷里の韮山に講道館分場をもうけて柔道の普及につとめた。
1891明治24年、学習院師範として生徒の柔道を天覧に供した。
1904明治37年、渡米して柔道を宣伝した。講道館八段。
常次郎の子、富田常雄が書いた『姿三四郎』は1942昭和17年に第1部、好評で第2部を出版、『柔』は1945昭和20年まで書き継がれた。敗戦後初の直木賞を受賞。時代物・開化物・現代物を書き、健康的な大衆作家として知られる。
山下義韶(よしあき) (神奈川県)
1865慶応1年、神奈川県小田原で生まれる。
1884明治17年、講道館入門。翌年、講道館と揚心流の他流試合となった警視庁武術大会、三島警視総監・嘉納治五郎らが居並ぶなか揚心流の強豪を破り講道館は全勝、名声をあげた。
1896明治29年、武術大会の縁で警視庁師範となる。
1903明治36年、アメリカの鉄道王ヒルに招かれ渡米。3年間滞在の間に、ルーズベルト大統領に柔道を教え、ハーバード大学、アナポリス海軍兵学校にも招かれるなど全米に柔道の名を広めた。
1934昭和9年、九段。
1935昭和10年、没。のち十段を贈られた。
横山作次郎 (東京)
1869明治2年、東京生まれ。
1884明治17年、講道館に入門。
払腰・足払・横捨身などを得意とし、柔術各流派の挑戦を受けて全勝し“鬼横山”と恐れられた。
1888明治21年、警視庁師範。
1904明治37年、七段。
1908明治41年、『柔道教範』のち、大島英助共著『柔道新手引』など出版。
1912明治45年、没。死後、八段を贈られる。
参考: 『福島県民百科』1980福島民友新聞社/ 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂/ 『民間学事典・事項編』1997三省堂/ 『日本武道史』1943横山健堂
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