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2014年12月13日 (土)

日露戦争時のアメリカ公使、高平小五郎(岩手県)

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 ときどき国会議事堂の向かい、憲政記念館の展覧会に行く。ただしせっかくの展示も漢文の素養がなく、公文書や明治人の達筆は読めないが、生の史料は刺激になる。先日、【明治に生きた英傑たち 議事堂中央広間から歴史を覘く特別展】を見た。
 自由民権運動の勃興、帝国議会の招集と歩みと指導者たち、板垣退助・伊藤博文・大隈重信・・・・・・以前はこのような展示をただ感心して見ていた。しかしある時、ここでの展覧会には東北人が滅多に登場しないことに気付いた。歴史は勝者が記すと聞いたことがあるが、ここで開催される数々の展覧会もそのようだ。なぜなら幕末明治の歴史をふり返れば、東北に人物がいなかった訳ではなく、敗者の側は能力があっても舞台に上がれなかった。
 東日本大震災で酷い目に遭った東北、もう3年9ヶ月もたつのに“被災地の声が届かぬ永田町”(岩手県被災者)の川柳が身につまされる。東北から原敬一人じゃなく首相が輩出していたらどうなんだろう。
    写真:11月末に憲政記念館から見た国会議事堂。
 国政のリーダーでなく各国公使や書記官クラスは東北人も登用されている。伊藤総理・板垣内務という元勲内閣時代に、オランダ弁理公使、イタリア特命全権公使を務めた東北出身者がいる。陸奥国一ノ関(岩手県)生まれの高平小五郎である。日露戦争時、小村寿太郎とともにポーツマス条約に署名したことでも知られる。

       高平 小五郎

 1854安政元年1月14日、一ノ関田村藩、田崎三徹の三男として生まれる。
 1863文久3年、10歳で藩の祐筆、国学者の高平真藤の養子となる。
 1871明治4年、藩校「教成館」から選抜され官費生として上京、大学南校(のち東京大学)入学。
 1873明治6年、工部省燈台寮に出仕。
 1876明治9年、外務省入省。12年、グラント将軍前アメリカ大統領来日の際には接伴掛。同年10月から外務2等書記生としてワシントン勤務。14年、外務書記官。
 1883明治16年12月、外務権少書記官として交信局勤務。
 1885明治18年3月、外務書記官として京城に在勤。
 1887明治20年上海領事。23年総務局政務課長。24年ニューヨーク総領事。
 1892明治25年9月、オランダ駐剳*弁理公使兼デンマーク公使
      *弁理公使: 特命全権公使の次で、代理公使の上位

 1894明治27年8月、イタリア駐剳特命全権公使。28年、オーストリア公使(スイス公使を兼任)。日清戦争後、遼東半島還付の三国干渉を偵知して本国政府に報告、外交界に高平ありいわれた。
 1899明治32年、青木周蔵外相のもとで外務次官。
 1900明治33年、外務省官房長官を経て6月アメリカ公使。

余談:『現代女傑の解剖』より

 ――― 鳩山和夫(政治家・弁護士)がエール大学の学位を受けるにあたり夫人の春子も渡米、日本人夫妻はアメリカで大いに歓迎された。鳩山夫妻はあちこち招待され、その度に春子は日本女性の代表者として女性の地位をあげようと演説、拍手喝采された。公使として常に鳩山夫妻と同席、この様を目にしていた高平は春子にちくり一針、
「貴女よ、日本女子の位置を論ずるに先だち、宜しく貴女の夫和夫君の事を顧みられよ。和夫君の艶名は本国に於て嘖々たるものあるにあらずや、己の夫をして攀柳折花の風流あらしめ而して却つて女子の地位を説くは、寧ろ滑稽に値せざるか」

 今なら高平の一針に対し幾十針も飛んできそうだが時代は明治、著者・九百里外史は春子に追い打ちをかける。
 ―――高平は肯綮(急所)をついている、男女両性は互いに独立すべきものに非ず・・・・・・高平氏の言は、一場の揶揄に止まらずしてまことに肯綮に中りしものなり」そして和夫の女遊びは春子が余りにお転婆だから嫌気を生じてその慰藉の法を他に求めるに過ぎず

 1905明治38年、アメリカ公使在任中、日露戦争の講和会議に小村寿太郎とともに全権委員としてポーツマス軍港へ赴き、働いた。
 1906明治39年、功により貴族院議員に勅選。翌年、イタリア駐剳特命全権大使。
 1908明治41年1月、アメリカ大使。
   当時、アメリカ国内では移民問題などをめぐって排日気運が高まっていたことから、第2次桂内閣小村外相は高平にたいして「日米永遠ノ和親ヲ維持スル」ために交渉にあたるよう訓令。11月、エリュ-=ルート国務長官との間に<高平・ルート協定>を締結。
 太平洋における商業の自由平穏な発展や現状維持、清国(中国)における商業の機会均等、両国領土の尊重など5項目を確認。正式には<太平洋方面に関する日米交換公文>、日本はハワイ、フィリピンに対する侵略的意図はないことを明らかにし、中国においてもアメリカとの協調を表明したのである。
 この件を国会図書館デジタルコレクションhttp://kindai.ndl.go.jp/ で検索すると、
   ―――光緒帝と西太后の亡くなった月に日米政府の間に取り交わされた「高平・ルート覚書」といふものは妙なものである(『挑むアメリカ』)などの他、様々な立場から書かれたものがある。

 1909明治42年、駐米公使を免ぜられ、1912大正元年に待命満期で退官。
 1910明治43年、伏見宮貞愛親王に随行して渡英。
 1917大正6年、再び貴族院議員に勅選され15年まで務めた。
 1926大正15年11月28日、73歳で死去。墓は岩手県西磐井郡真瀧村瑞川寺。

    参考: 『明治時代史大辞典』吉川弘文館/ 『日本史辞典』角川書店/ 『現代女傑の解剖』九百里外史著1907万象堂/ 『興亜の礎石 近世尊皇興亜先覚者列伝』大政翼賛会岩手県支部1944  

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