« 日露戦争時のアメリカ公使、高平小五郎(岩手県) | トップページ | 狂歌百人一首、大田南畝(蜀山人) »

2014年12月20日 (土)

民の本は農工商の隆盛にあり、十文字信介(宮城県)

   
 このところ寒冷地ばかりでなく日本各地で大雪被害が相次いでいる。降り積もって災害をもたらす雪はスキー場の雪と違って、恐ろしいばかり。雪に閉じ込められ停電で寒さに震える地域に少しも早く電気が届きますように。天空に願いたい、降る雪を加減して銀世界と雪合戦を楽しめる程度に止めて。
  
        十文字信介の機知 雪合戦に勝つ
 大いに雪降り綿を飛ばすがごとし、海軍兵学校諸生徒は他日、帝国の*干城を期するもの。気昂ぶり腕鳴り、少年隊と青年隊の二隊に分かちて雪戦す。落花紛々、雪丸飛び霰(あられ)の如し、両隊苦戦
・・・・・・雪戦たけなわなるや朔風肌をさし手足凍結、両隊大いに悩む。信介走りて手桶に温湯を入れ、ひっさげて戦場に至る。之によりて少年隊は交々手を温め、寒さをしのぎ勝を得たり(『実業家奇聞録』1900実業之日本社)。
  *干城: 国を守る者、転じて軍人、武士。

           十文字信介

  先祖は奥州亘理郡(宮城県)十文字館の城主、のち仙台藩支封伊達安芸の居住地陸奥国涌谷(宮城県)に移住。五代目が南蛮流の砲術家として知られ、その子秀雄は砲術で伊達家の師範役になった。信介の父である。秀雄は江幡五郎当ブログ2014.2.15東洋史学者・那珂通世と分数計算器)と親友。
 信介は1852嘉永5年11月、陸奥国涌谷に生まれる。7歳で涌谷月将館に入り漢学を学ぶ。8歳で藩主の小姓となったが、口が達者で目上をはばからず銭庫に閉じ込められたこともある。
 家業の砲術を学び10歳にして和銃の不利を悟り、父と鈴木大亮に西洋砲術を学び銃を毎日発射した。そのため鼓膜が破れ、4年間の療養の間に嫌いだった読書に励み多くを得た。中でもアメリカ独立の租ワシントンの伝記に感動、激しすぎる己の品行を顧みて反省したという。
 1868慶応4年、16歳のとき戊辰戦争起こり佐幕、勤王がぶつかり物情騒然となった。信介は大義が勤皇にあるとして「勤皇」を腰刀に刻み奔走、佐幕派に挑み挫こうとしたが父に止められ思いとどまった。

       <農は国家の父母なり

 明治初年、叔父の十文字栗軒が*開拓使大主典として北海道に赴くのに随行、当地を見聞した。のち上京、箕作秋坪に入門して英学を学んだ後、海軍兵学校に入学。雪合戦のエピソードはこの時で元気だったが、激性胃腸病にかかり1年で退校。欧米の政治経済を学ぼうとしたが学資がなく、柴田昌吉と西洋人について書を読み政治経済を学んだ。
   *開拓使: 明治初期の北海道開拓と行政機関。明治15年廃止。

 1873明治6年ころ寺島参議が信介に与えてくれた蔵書中の政書に
「欧米政治の原は民にあり、民の本は農工商の隆盛にありて攻伐戦勝に非ざるなり」の一節があった。これを読んだ信介は、
経済の要は実行にあり、経国の道は農業を発達するより急なるはなし、此業にして盛んならずんば日本の富強は期すべからず」と農桑山林牧畜を学ぼうと決心、開拓使農学校に入学した。しかし間もなく農学校は閉校になってしまった。
 信介は方針を変え、「農業経済真理の実験」を行う事にして駿河台(東京)旧吉川侯の屋敷跡の空き地500坪を借りて農業を始めた。
 農夫2人を雇い、自らも耕した。西洋野菜、西洋葡萄の類を植え付け種苗を販売した。野菜はキャベツ・ビート・セロリ・パセリ・トマト・苺など。他に鳥の飼育、事業は利潤もでて、生活の方も使用人一人、食客数人をおけるまでになった。
 *津田仙が東京麻布に学農社を起こすと、これに加わり農書を学び『農業雑誌』の記者・編集長として刊行に尽力、また『農学啓蒙』『農業科学』『小学読本農学啓蒙』などの編著、翻訳をした。十文字信介の名が上がり広島県に招かれた。
    *津田仙: 農学者。明治最初の女子留学生、津田梅子の父。

      <広島県勧業課長、宮城県農学校長

 1878明治11年冬、広島県勧業課長になり赴任。広島に赴くとすぐに馬一匹と「小学読本」を買い求め、地理を覚え馬で市街を一巡した。勧業課長として殖産興業につとめる傍ら、農学の私塾を開くと、山陽はもちろん遠く故郷の宮城、北越からも子弟が集まり百名を超す人気であった。信介は喜んで毎朝5時起き、3時間の講義をしたが公立の農学校設立に尽力、私塾を閉じた。著作の教科書を安い値で販売しても版を重ね利益がでたので500円を宇品築港に寄付した。また、道路開削にも関心を寄せ、石洲街道開削に功があった。次は広島でのエピソード。


        十文字信介 井上馨を驚かす

 安芸の宮島付近の林、信介は猟銃でヤマシギを撃ち落とした。たまたま近くにいた井上馨参議が自分を狙撃したとして巡査に発砲者を探させた。巡査が信介を見つけると信介は
「予は*海山猟夫十文字信介なり。シギは射ったがサギ(参議)は射たないと井上に報ぜよ」といった。友人らは、信介生涯の大出来と賞した(『明治奇聞録』嬌溢生1911実業之日本社)。
    *海山猟夫: 家は砲術家なので狩猟にたくみで海山猟夫と号した。

 1884明治17年、父の病気で故郷に帰り、同年、宮城県農商課長兼農学校長
 1886明治19年、宮城郡長仙台区長
 1889明治22年、公務の合間の一首
     今日もまたよしあし原に分け入りて 思ふかままにかりくらさなん

       <政治と実業

 1890明治23年、富田鉄之助(2013.3.10剛毅清廉の実業家、富田鉄之助)と松島に「松島倶楽部」を作り松島の風光明媚を発揚した。同年、第1回総選挙に宮城3区から当選、大成会に属した。大成会再編問題が起き奥羽連合同志会を作る動きなどあったが、信介は第2議会が解散するとそのまま議院を去った。
 1893明治26年春、銃器製造販売で実業界入り。『猟銃新書:傍訓図解』を著し、猟具館を開いた。
 事業経営、発明したものは、最新式石油発動機を輸入販売・鉄砲の製造・蒸気ポンプ・重過燐酸肥料・消火器・消毒噴霧器・改良農具など。
 1902明治35年、大日本農会第21回集会で「農業家目下の急務」東北地方苹果(りんご)栽培の必要を演説。
 1908明治41年8月12日、没。57歳。
 
  参考: 『百家高評伝』久保田高三1895文寿堂書林 / 『日本帝国国会議員正伝』木戸照陽編1890田中宋栄堂 / 『宮城県国会候補者列伝』藻塩舎主人1890晩成書屋  /  『宮城県国会候補者列伝:一名・撰挙便覧』日野欣二郞1890知足堂  / 『明治時代史事典』2012吉川弘文館             

|

« 日露戦争時のアメリカ公使、高平小五郎(岩手県) | トップページ | 狂歌百人一首、大田南畝(蜀山人) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 民の本は農工商の隆盛にあり、十文字信介(宮城県):

« 日露戦争時のアメリカ公使、高平小五郎(岩手県) | トップページ | 狂歌百人一首、大田南畝(蜀山人) »