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2015年1月31日 (土)

妻にふられたお陰で昌平黌教授、安積艮斎(福島県)

 明治人を調べていて「昌平黌(しょうへいこう)つながり」を感じる事がある。諸藩から熱意ある若者が集う昌平黌では師弟の情とともに友情も生まれただろう。ことに幕末、時代の転換期には出身藩によって立場が分かれるが未だ佐幕・尊皇一辺倒でない頃は、藩を背負わず気の合う友人同士で思うままに行動できた。
  ペリー来航時には休暇をとり、一人で或いは友人と浦賀や房総まで出向く者がいて、海外防備の重要性を改めて認識したのである。それに政治情勢が相まって昌平黌は幕府の学問所なのに、尊皇攘夷の空気が漂い、やたらに剣を振り回す者がいたり、会津の南摩綱紀のように洋学を学ぶ者もでてきた。ついには過激な方へ走る者も、その最激派が天誅(忠)組の松本奎堂である。
 奎堂と尊皇の志を同じくする昌平黌の友人に仙台藩士岡鹿門と大村藩士松林飯山がいた。この三人はのち勤王の双松岡塾を開く。飯山は安積艮斎の門人で同じ安積門の本間精一郎を奎堂に紹介したところ二人はすぐ意気投合した。同期、同門は友人をも繋ぐ。
 昌平黌寮名簿によると学生名と藩主、師(安積門・古賀門・佐藤門・林門など)がわかる。安政期をみると安積門は多い。昌平黌以外にも門人が多く、土佐藩の岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)はよく知られる。昌平黌といえば林家とか古賀家のイメージ、安積艮斎はどんな学者だったのか漢学どころか漢文も読めないが、ちょっと気になり見てみた。
 
          安積 艮斎  (あさかごんさい)

 1791寛政3年~1860万延1年。幕末期の儒学者。
 陸奥国安積郡郡山(福島県中央部)、神官・安藤親重の子。名は重信。号は思順。

 幼くして二本松藩儒・今泉徳輔に学び「この児怖るべし」といわれるほど優秀であった。
 1807文化4年、16歳。隣村の里正(庄屋)今泉家の養子になったが、艮斎は醜男で風采があがらない上に、読書が好きで、野良仕事が手につかない。妻も舅も艮斎が気に入らない。今なら高校生夫婦、若い二人の感情は無理もない。当然おもしろくもない日を送っていると、郡山に大火があった。すると舅が艮斎に、屋根葺き用の藁を売りに行くよう命じた。
 艮斎は二匹の馬にたくさんの藁を積んで郡山へ行き、半日くらいで売りきったが儲けは僅か。艮斎は掌にのせた銭を見て嘆息、
「われ二馬と共に半日を費やして僅かに数緍(すうびん・銭を差し通したひも) を売るに過ぎず。何ぞそれ賤なるや。しかず、男子の志を成して、富貴を取らんには」そういうと、馬を町外れの林の中に繋いで飄然と江戸に上ってしまった。17歳の時である。

 養家を出奔した艮斎、なんとか千住まで来たが旅費が尽きた。途方に暮れていると、江戸本所馬場町妙源寺の住職・日明が声をかけてくれた。事情を聞いた僧の日明は艮斎を寺へ伴い、艮斎の学力を知ると佐藤一斎に紹介した。お陰で艮斎は一斎の門人となり学僕として住み込み、雑用をこなしながら勉学に励んだ。夜中に眠くなると煙草の脂を瞼に塗りつけて眠気を追い払って勉強したという苦学中の話がある。

 1810文化7年、19歳。初めて江ノ島に遊び書いた紀行文は名文と讃えられる。
 1813文化10年、昌平黌に入り林述齋に学ぶ。
 1814文化11年、神田駿河台小川町に私塾・見山楼を開く。
 朝な夕な富士山と対面というのが見山楼の由来である。塾を開いて間もない頃、町内の井戸恬斎(てんさい)と子の浩斎(こくさい)を知り、酒を飲み、史を論じ、あるいは詩を賦し、交わった。井戸父子は艮斎が赤貧洗うが如し、あまりに貧しいので大いに同情、熱心に塾を応援した。父子の口コミのお陰もあり次第に生徒が集まるようになった。艮斎はその徳を終生忘れなかった。

 1836天保7年、二本松藩の藩校の教授に招かれる。藩主の御前で、艮斎が春秋左氏伝を大河の流るるごとく滔々と講じると、満座の誰もが熱心に耳を傾けたという。博覧強記の艮斎は、諸子百家の書ことごとく読破、学識は古今東西及ばぬところがなかった。

 1850嘉永3年、60歳で師の佐藤一斎と共に昌平黌の教授に挙げられた。
 艮斎は学者が一派に拘泥して壷中の天地に縮こまっているのはよくないと、林大学守一派の学派(朱子学、当時の官学)とは別に一派をたてた。その学は、*程朱陸王漢唐老荘の諸派の粋ををとり、打して一丸とする創見(新しい考えや見解)に富んだものであった。
   *程朱陸王漢唐老荘=程朱:(程朱学)北宋の程兄弟と南宋の朱熹の唱えた儒学(朱子学)。陸王:(陸王学)宋の陸象山と明の王陽明の学説。漢:(漢書)中国の史書。唐:中国の史書・唐詩。老荘:道教のもとを開いた老子と荘子が唱えた思想・学問。

Photo

 

 1853嘉永6年、ペリー来航、翌年ロシアのプチャーチン来航という時勢。艮斎は国防にも関心をもち、またアヘン戦争に刺激され『海外紀略』を著した。
 詩文家として名声を得た艮斎は、松崎慊堂古賀穀堂らと親交を深め、その詩文『艮斎文略』は大いに読まれた。多数の著作を残している。
 写真:小説家・劇作家の菊池寛が『わが愛読文章』でとりあげた『艮斎閑話』の表紙。

 日頃の艮斎はぼさぼさ頭で身なりを構わず、談論を好み口角泡をとばて我を忘れ、天真爛漫なところがあった。終生人の短所を言わず、楽しみは山水の遊覧だけだったという。
 その艮斎、机近くにいつも婦人の絵を掲げていた。絵の女性はかつての妻で、妻に愛されていたら家庭におさまり今の自分がなかった。だから発憤させてくれた恩を忘れないためだという。
 1860万延元年11月21日、69歳、昌平黌官舎で没。南葛飾郡綾瀬村堀切妙源寺に葬られた。のち東京府の区画整理で寺と共に墓も移転。

    参考:
  『人物の神髄』伊藤銀月・著1909日高有倫堂)/  『先哲叢話』坂井松梁1913春畝堂/ 『成功百話』熊田葦城1926春陽堂 /  『贈位功臣言行録』河野正義1916 国民書院 / 『コンサイス日本人名辞典』三省堂

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     <特別展『3.11大津波と文化財の再生』のご案内>

 “よみがえった明治の響き―――津波で損傷 修理のオルガン”
 2015.2.1毎日新聞に、オルガンを弾いている写真と上記見出しの記事があった。現存しない国内メーカー「海堡」が明治時代に作った、数台しか残っていない貴重な楽器という(3月15日まで展示)。

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