名誉は高く謝金は低くの弁護士、野沢雞一(福島県)
いつの時もニュースの種は尽きないが、明るいニュースがあればホッとする。なかでもスポーツ選手の活躍は何の競技でもなんだか励まされる。テニスの錦織圭選手がブリスベンの全豪オープンで勝ち抜く姿が何度も放送されている。その都度コートそばのBrisbaneの文字が目に入り旅行の思い出がよぎる。
メジャーリーガーの一郎が、日本のオリックスの優勝旅行でブリスベンに宿泊中のホテルの前を通りすぎてコアラを見に行ったり、12月グリーンクリスマスのオーストラリアをあちこち訪れたりと夫と娘との三人旅が懐かしい。
今や海外旅行は珍しくないが、150年昔は費用、交通機関、現代とは比べものにならない。でも、幕末明治の若者は困難な状況にあっても留学の機会を得れば、喜び勇んで海を渡り学問をしっかり身につけた。戊辰戦争で辛酸をなめた野澤雞一もその一人である。
野澤雞一 (のざわ けいいち)
1852嘉永5年、陸奥国野沢村(野沢原町/福島県耶麻郡西会津町)で生まれる。本姓は斉藤、のち野沢と改める。父は兵右衛門は里正(庄屋)、母は石川氏。幼名は九八郎。
14歳のとき渡部思斎の研幾堂で法律や経済などについて学んだが、16歳の時、会津藩医・大島瑛庵に従い、英学を学ぼうと長崎へ向かう。
1867慶応3年、長崎への途中京都に立ち寄る。折しも、山本覚馬が長崎から横山謙明を招き、会津藩洋学所を開き他藩の学生も教えた。野澤は覚馬を訪ね入学し、学業が進歩するに及んで会津藩主より三人扶持を賜り、臨時藩士なった。
1868慶応4年、鳥羽・伏見の戦い。4月、薩摩藩兵が会津洋学所を襲い16歳の野沢は陣所の相国寺に連行された。捕らわれた山本覚馬と共に京都薩摩藩邸に幽閉される。この幽閉中に眼病を患っていた覚馬の建白書、将来の日本のあるべき姿を論じた『管見』を野沢が口述筆記した。
6月、野沢は京都府の(旧幕府町奉行所)六角牢獄に移されると獄舎獄則惨憺たる有様。このとき虐待により野沢は足に障害を負った。数回の尋問を経て9月放免となり、年号は慶応から明治に替わっていた。明治天皇即位と改元の大赦により釈放されたのだが、歩けないほど弱っていた。それを見かねた役人が野沢憐れんで看護費用を与えた。ところが、看護人がその金を持ち去ってしまい食べるのにも困窮した。あまりの仕打ちを嘆く野沢少年を助けたのが鉄五郎という奥州生まれ(江戸とも)の侠客だった。こうした京都での艱難辛苦はのちの裁判官、弁護士の仕事に活かされたのは間違いない。
1869明治2年、獄中の野沢を尋問した山田輹という人がまだ17歳の野沢を引き取り寄食させてくれた。
1870明治3年、山田は野沢をドイツから帰朝した小松済治(横浜地方裁判所長)に預け、学資を出して野沢を大阪開成所へ入学させた。ここで同じく学生だった星亨と親しくなる。
1871明治4年、星が教頭となった横浜の神奈川県立英学校「修文館」に移り、『英国法律全書』を星と共に翻訳、イギリスの法律を学ぶ日本の政治家や学生に活用され、法律整備の先駈けともなった。
1872明治5年、星の推薦で大蔵省に入り、横浜税関職員など歴任。
1874明治8年、新潟税関長代理に任命される。
渡米(年代が資料により明治7年または10年)、アメリカのエール大学で法律学を学ぶ(渡米)。帰国後、星亨の義妹と結婚、星の政治活動を支えた。のちに星亨の伝記を編纂。筆者が野澤雞一を知ったのは『星亨とその時代』(東洋文庫)の編纂者としてである。
1878明治11年、代言人(弁護士)の免許を得る。官を辞して民に生きることにしたのだ。
1882明治15年、福島事件において星と一緒に弁護活動を行う。
1889明治22年、さらに知識を深めるため再渡米、ニューヘーべン法科大学で学び、ヨーロッパを廻って帰国。のち神戸地裁判事を経て公証人となり、銀座に公証人役場を設けるなど、日本の法整備やその確立において多大な貢献をした。
代言人の仕事ぶりは、親切で困苦困難に陥った人をよく助けた。放火未遂の被告の娘を無実の罪から救った事もある(『高名代言人列伝』)。
1923大正12年9月、関東大震災に遭い蔵書が全部灰になった。
余談。『閑居随筆』(慶応大学図書館蔵)「閑居随筆前加言」に蔵書消失とあり、幕末から昭和までの激動をくぐり抜けた人物の記録が失われ残念に思った。弁護士という職業柄もあり種々の記録を有していただろうに、災害は文化も襲う。その生涯をなぞっただけでも興味深い人物だと思うが、伝記がないのは惜しい。『閑居随筆』の題から、ご隠居のゆったりした話柄を想像したが内容は深くて、文章も漢文調で筆者には難しい。目次から一部紹介――― 人心・易学・偶感漫語(利・時宜・貿易主義・無死・国民・満蒙領有・空間時間その他)
1932 昭和7年、死去。
野の澤の蘆邊の蔭の釣小舟 翁寝けん艫先のみ見せ
なへて世の人の云ふまま打捨てて 我を立てねは心安かり
(『閑居随筆』1933野澤雞一)
ちなみに、石川暎作はという従兄がいる。大蔵官僚で経済雑誌の記者。『アダムスミス富国論』を翻訳。1886明治19年28歳の若さで死去(『岩磐名家著述録』1941福島県立図書館)。
参考: 写真:福島県観光交流局HPより/ 西会津商工会HP/
『高名代言人列伝』原口令成1886/ 『大堀(旧野沢)雞一君小伝:福島県第四撰挙区衆議院議員候補者』山寺清二郎1892
| 固定リンク
コメント