立行司、八代目式守伊之助 (岩手県)
古い地方史誌の人物覧を見ると、地域の成功者・著名人はもちろん親孝行・努力忍耐の人、芸妓、横綱と様々。中には大金持ち、多額納税者もあり選び方に世相や地域感が滲み出る。ただ、郷土の誇りにしても持上げすぎではと思う事もある。資料が限られそのままとるしかないが、略歴やエピソードは人物のいい手がかりだ。今度は岩手県にしようと『和賀郡誌』をみて「八代目式守伊之助」を見つけた。横綱名を見かけるが行司は珍しい。相撲の歴史は古く奥が深い、そう簡単に相撲界は分からないだろうが、式守伊之助のゆくたてを見れば、江戸~明治の相撲界がちょっと見られるかも。それにしても、ワールドワイドになった大相撲、今日の日本人横綱不在を誰が予想したでしょう。
式守家開祖、式守五太夫
( 『相撲必勝独学書:四十八手図解』1923出羽之海谷右衛門述)
相撲勝負の判定役の行司は、勝負を裁くのみならず、相撲に関する儀式典礼、事務上のことも行司の職責であった。
行司の家柄には由来があり、聖武朝の志賀清林が勅命によって行司をしたのが初めとされる。その後、途絶えたが木曾義仲の臣・吉田豊後守が継承、五位に任ぜられ追風の名を賜り代々行司の家職を建てて相撲の司となった。それが吉田家の祖で、吉田家は勧進相撲・神事相撲・武将の御前相撲に至るまで、一切の儀式並びに故実を定めた。この吉田家の門下に「木村」という家があった。
真田伊豆守の家臣・中立羽左衛門の三代目が「木村庄之助」を名乗り五代目が吉田家の門下となって行司役の免許状を受け、以来行司と言えば「木村」となった。
式守家は、木村家三代目の弟子で「式守五太夫」が開祖である。五太夫は伊勢之海五太夫の弟子、もとは力士であったが、力士としては思わしくないので行司修業を志した。
修業を積み吉田家の直接の門人となり、式守の姓を得た。そして、吉田家の秘宝である獅子王の模品を贈られ、立行司として一家を起こしたのである。のち五太夫は伊之助と名を改め、それ以来、式守家は伊之助と称するようになった。
八代目式守伊之助
( 『和賀郡誌』1919岩手県教育会和賀郡部会)
幕末1842天保13年、岩手県南西部の黒沢尻本町に生れる。父は後藤儀助、母はりわ。幼名は錦太夫。
出生当時たまたま江戸大角力の興業中であった。年寄伊勢の海・五太夫が赤ん坊を錦太夫と命名したのである。
1847弘化4年、数えの六歳で五太夫に入門し、この時、名前を錦太夫から興太夫に改名した。ところで、錦太夫も興太夫も相撲行司の名前なので、後藤興太夫は生まれながらにして行司になる運命だったともいえる。
ところで、行司をちょっと見ると、「よく見合ってまだまだ」とかのんきそうに見えるが、行司の修業ほど辛いものはないそう。現代ではどうか分からないが、春場所の時分、毎朝凍り付いている土俵の砂を裸足で踏んで、次から次へ何番となく取り組ませていると、指先が切れるように痛む。その辛さと言ったら・・・・・・だから中年者にはこの辛抱がしきれず大抵中途でよしてしまう。
行司の修業ばかりは子供の時からミッチリ仕込まなければならない
(『お相撲さん物語』小泉葵南1918泰山房)
興太夫は辛い修業をへて、八代目・式守伊之助を襲名、名行司として讃えられた。相撲司家より紫総(ふさ)獅子王の最高軍配を贈与されたのは、式守家歴代中、八代目伊之助一人と言われる。
1897明治30年12月18日 56歳で没す。諏訪公園内に記念碑。
息子の後藤錦太夫が父の後を継ぎ、行司名は式守錦太夫という。
行司の階級
黒糸格。 軍扇の房は黒糸。前相撲、から三段目幕下に相当。
格足袋。 軍扇の房は青と白のよりまぜ。十両力士に相当する格式。足袋着用。
本足袋。 軍扇は紅白の房。力士の幕内に相当。
上草履格。 軍扇の房は緋色。上草履を履き木刀を帯し土俵に登る力士の三役格。
紫総格。 吉田家特許の立行司で最上級。力士で言えば横綱の位。紫総(ふさ)の行司は、木村家に一人、式守家に一人とされ、紫総の立行司でも、吉田家から真に免許を得ない者は、白糸を交えている。これで、八代目伊之助の紫総獅子王の軍配が最高と分かる。
行司はおおむね自分と同階級の力士の立ち会いにあたる。青白の総(ふさ)の行司が出れば、どちらか一人は十両だとわかり、紅白総の行司がでれば幕内登場と知れる。お相撲の勝負ばかりに目が行くが、さすがに歴史がある角界、いろいろな楽しみ方がありそうだ。場所がはじまったら、行司さんの衣装・軍配にも注目してみたい。
土俵に登ったら、行司の軍配の引き方一つで、立合いが早くもなれば遅くもなるといわれなかなか難しい。両力士の気合いを見ることは勿論、投げの打ち方から差し手の如何、足の運び方から土俵の多寡(力士が土俵際から離れているかそれとも近いか)を、精細に目を配らなければならず容易なことではない。
場合によっては差し違いとなって、力士と同じように黒星がつき昇進に差し支える。また、行司は相撲の故実にも通じ、相撲社会独特の字を書くことに堪能でなければならない。取組の組合せにあずかり、その表(わり守)をつくる。
行司は土俵場祭をつかさどり、その他の式典を主宰する。またその他の介添え、力士と諸荷物の運輸、雑務を処理するなど、それ相当に仕事が多いからむしろ力士以上に修業を積まなければならない。
(『相撲の話』大の里万助著1932誠文堂文庫)
ちなみに、岩手県気仙郡出身に盛岡侯お抱え力士、三代目秀の山雷五郎がいる。弘化2年、第九代横綱となったが、当時、錦太夫(式守伊之助)はまだ4歳、おそらく土俵で相見えることはなかっただろう。
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コメント
貴重なコメントありがとうございます。
おそらくこのページを読まれた人にもいいお話しかとおもいます。
拝見するのが遅くなりましたが、公開させていただきます。
投稿: 中井けやき | 2024年3月20日 (水) 10時14分
八代目式守伊之助の子孫です。毎月過去帳に今日が命日で戒名興太夫で拝ませて頂いています。小さい時に父が家の長持ちから着用の裃二着袴二腰子供用裃一を日本相撲協会相撲博物館に寄贈して感謝状が二つあります。NHKでの放映もあったりしました。母の後藤の流れで300年後の分家が父の後藤です。同じ後藤の夫婦でした。因みに式守伊之助の子供に明治大正の20代目木村庄之助がいます。命日でなんとなくネット検索していて興味深くて広言したことはありませんが、コメントさせて頂きました。
投稿: 後藤眞理子 | 2024年3月18日 (月) 17時44分